早稲田大学ヨット部

OB列伝

舟岡 正

■舟岡 正■

東京都 都立江北高校卒業 水泳部出身

1956年 早稲田大学第一法学部卒業

巴工業ヨット部でA級ディンギーの選手になる

1962年  ノルウェー・ハンコ ドラゴン級ゴールドカップ出場  同年 デンマーク・ヨーロッパ選手権出場

1963年 デンマークドラゴン級選手権出場  同年 スウェーデン・マルストランド ドラゴン級ゴールドカップ 23位/77艇

1964年 東京五輪 ドラゴン級代表 その他 クルーザーレース多数で活躍

2001年 巴工業 社長を引退、相談役に就任

「私が最も誇りを持っていたのは、台風が来ると、早稲田は声をかけなくても、どこよりも早くみんな横浜のハーバーに集まる。 そしてトラブルがないように自分たちの船を片付ける その後、YYC(横浜ヨットクラブ)にLクラスの船が30杯くらいあったのだが、それをYYCの従業員だけでおかへ揚げるのは大変だ。 そこで、早稲田の連中が力にまかせてどんどん手伝って揚げてしまう。 早稲田はシーマンとしてのやるべきことをやるというのがしっかりしてたと思うね。」

 

「実はね、この間8月の末に東京オリンピックに出た連中と友達も含めて7人でコペンハーゲンへ行ったんだよ。 向こうのヨットクラブに寄ってさ、話をした時 KDY(デンマーク王立ヨットクラブ) のプレジデントが旗をくれたんだよ。僕もJSAFの旗を一枚あげて」そう言って戸棚の上から JSAFの青い旗と KDY(デンマーク王立ヨットクラブ)の旗を二枚見せてくれた。しかし驚いたのはこの後の話だ 「それでその時、我々が行くというのでわざわざデンマークの東京オリンピックに出た友達の選手が、『せっかく来るんだからお前たちのためにレースを用意するからやらないか』って言うんだよ。『ドラゴンじゃないけど、ドラゴンとほとんど同じ大きさの船だから』って。 そりゃ面白いっていうんでレースをやったんだよ。 ひどい雨で2レースしかできなかったけど、結局僕が優勝してシャンペンを貰った。」 舟岡氏にはヨットを通じて知り合った友達が世界中あちこちにいる。 「これもその友情の証みたいなものだね」 と言って封の開いていないシャンペンを大切そうに眺める。 もったいなくてとても一人では飲めないそうだ。

「私はヨットマンとして活躍した時代は短いけど、一生ヨットから離れられないし、離れる気もない。 だから、リタイヤしたら、ヨットハーバーの近くに住もうと思って、それでここへ土地を買って家を建てたわけだから。」

湘南国際村。平成6年に三浦半島中央部の丘陵地帯に開村した神奈川県の国際交流の拠点というべき場所だ。 相模湾や大島、富士山も一望出来るこの場所は住宅地だけでなく大学院大学や、企業のセミナーハウスも数多く存在する。ここに舟岡氏は現在一人で暮らしている。その家のリビングに向かい合って座るとゆっくりと話はじめる。 舟岡氏が最初に行った海外レースの話だ。
「1962年、大学を卒業して巴工業に入ってしばらくたった27、8歳の頃だよ。ノルウェー・ハンコのゴールドカップレースと、デンマーク・コペンハーゲンのヨーロッパ選手権へ行った。それが最初のドラゴンの国際試合だった。

その翌年1963年もスウェーデンのマルストランドでドラゴンの ゴールドカップ (今の世界選手権) があって日本ヨット協会の代表としてまた行った。 参加艇数過去最高の77杯。 ドラゴンが77杯一斉にスタートする大変壮観なビックレース。 結果は総合23位だった。」

ちなみにドラゴン級は1936年にイギリスのクライドでレースがあり、クライド・ヨットクラブ評議会がDragon Gold Cupを作った。現在に至るまで世界選手権優勝の証はゴールドカップである。

「ドラゴンには巴工業に入社なさってから、何年目くらいに乗り始められたのですか?」
「3年くらいたってからだと思うよ。ドラゴン級の日本最初の艇は、西ドイツのラスムッセン造船所から輸入したミスニッポンⅣ世だ。 巴工業の山口四郎社長がオーナーだった。 その後、東京の片貝造船所で5~6隻を建造し、延べ、9隻のドラゴン級を巴工業が所有。 その他を入れると、約15隻のドラゴンで、日本ドラゴン協会を運営していた。」 
そうして1964年に舟岡氏が代表として出場した東京五輪があった。 
<日本初のドラゴン ミスニッポンⅣ世>
「あの時は24杯中で17位。まことに残念だった。 地元でありながらね。江ノ島で行われた。 出来る事ならもう一回レースをやりたいね。 成績表もまだ持ってるよ。17、17、14、16、16、10位だった。 だんだん後半になるにつれてオリンピックにも慣れてきていた。 途中でトップ走ってる時もあったんだ。」
オリンピックで全7レース。今から考えれば少ない気もする。
「フィニッシュするときも雪崩のごとくだ。 みんなスピードに差がないからね、塊になってフィニッシュする。 ゴールドカップなんかより、オリンピックに出てくる連中は素晴らしい連中が揃っている。 ものすごいデッドヒートだった。」
東京五輪の後、舟岡氏は第一線を退く。オリンピックを狙うメンバーから自ら外れたのだ。 退くには少し早いと感じるが、実は舟岡氏には東京五輪の時から思うところがあったのだ。
「私は東京五輪に幸か不幸か選ばれたが、選ばれなかった中にも腕のいい選手はいくらもいた。 東京五輪の後、最初から3人に絞って今度はメダルを狙えるようにしてあげようと思っていた。 メキシコオリンピックの前の前の年くらいにドラゴン級ゴールドカップが世界選手権って名前になって、それに巴から参加した。その後でドラゴンはオリンピックに採用されないことになった。代わりにソリングになって結局巴からは誰も行かなかった。」
オリンピックとしては日本のドラゴンはローマ五輪と東京五輪だけだった。
「私はヨットをやるために巴に入った人間だが、最後は社長をやってた。 同期の日色(東京五輪のドラゴンのクルー) は最後の二年間は専務。 早稲田ヨットのOBが社長と専務。そういう時代があった。
「東京五輪の後はもうドラゴンには乗られなかったのですか?」
「私は東京五輪の後、二年くらいはドラゴンでレースに参加していた。 でもドラゴンは五輪からなくなったし、巴としてはドラゴンを処分しなきゃいけなかった。
<ゴールドカップで計測中の舟岡氏>
その頃9杯あったのを全部売ってしまった。 私はヨット部には所属していたが、ドラゴンが終わってからは四大学のOB戦に出るくらいで、レースには出なかった。選手としてはそこですっと切れている。」
舟岡氏は大学からヨットを始めた。 ヨット部に入られたのは18歳だったそうなので選手として活躍したのは本当に10数年しかないことになる。
「だけどヨットからは離れないし、みんなの世話を焼くとかそういうことはずいぶんやった。」 「そのうち巴工業がジプシーというフランスの船を輸入するようになった。OBの松本さんがリーダーでやったんだが、景気のいいとき、バブルの時代には年16杯とか20杯近く売れた。 ジプシーを巴に一艇、新規導入したとき、今江ノ島にある稲魂 (早稲田ヨット部のOB会が所有する艇) も輸入した。巴はジプシーを入れるために、ヤマハ製の古いミス日本六世を処分しなきゃいけないんで、それを僕が買った。 その船を房総の布良に置いて 週末は船に泊まるという生活を数年したね。 だからレースをやった期間は短いけれど、ずっとヨットとは切れていない。」

今の現役部員も馴染み深い「稲魂」はジプシーという艇種だという。

「稲魂と同じサイズのものは今、巴工業のミス日本Ⅶ世として鐙摺港にある。 学生のレースの本部船としてたまに利用されるよ。」

話は、舟岡氏の高校・大学時代の頃へと移る。
「私は一年浪人してるんだ。早稲田に入りたかった。 高校までは水泳部だった。しかもその高校にはプールがない。プールのない水泳部だ。 当時は古橋さんが活躍してた頃だ。プールがないから東大の室内プールとか、あちこち借りて練習する。自由形で競争には出ていた。まあ結果はろくでもなかった。」 「浪人中は当然勉強もしたけど、飽きるし、もともと勉強好きじゃなかったし、予備校へ行くのも最初の三ヶ月くらいでばかばかしくて行かなくなっちゃった。代わりに上野図書館へ行って一生懸命暗記していた。」

「北千住の今の千住新橋。荒川放水路。あそこにボート屋があった。そこでローイングボートを漕いでいたんだ。子供のころから本当に船が好きなんだよ。小学校四年生くらいからボート屋行って一人で漕いでるような子供だったから。」

 

ボートが好きだった舟岡氏がヨットに乗るきっかけとなったのは、「力を出してやるより、もっと楽しいヨットがあるじゃないか」という友人の言葉だったという。
「同じ場所に貸しヨットも三杯くらいあったけど、『俺あれはわからないからオマエわかるんなら教えてくれよ』と言って教わって。すぐ好きになった。 大學へ行ったらヨット部に入ろうと思ったね。水泳は芽が出ないだろうと思ってた。 でもヨットは最初から好きだった。」
<荒川放水路のヨット(S31年ごろ 千住新橋と西新井橋の間)> 写真撮影:吉田千伊知氏( 荒川の昔を伝える会 会員)
舟岡氏が大学ヨット部に入部した当初は50人以上の同期がいたが、卒業する時には5人ほどになってしまっていた。 「ヨット部に入ったって最初は船の上げ下ろしや整備ばかりやらされる。」 当時の人数ではヨット部にいてもヨットに乗れない状態、辞めて行く者が多かったのだ。 「ただ私の場合は船にさわってれば満足だった。上げ下ろしや整備ばかりでもぜんぜん苦にならなかったね。」 舟岡氏が4年生の時、館山で行われた全日本インカレで早稲田は優勝している。 つまり今年優勝していれば、11月1日に日本一を決めた中日ドラゴンズと同じく、53年ぶりの日本一だった。 結果は4位に終わってしまったが、舟岡氏は現地にも応援に来て下さっていた。
「今年優勝できたよな。まともな風が吹いてればね。それはしょうがないけどさ。 僕らも現役の時、非常にプライドの高いチームで、いつだって優勝出来るという気持ちで、 誰にも負けないくらい練習はしたよ。 でも、ヨットレースで勝つことは、そんなに簡単に行かないんだよな。」
<関東個人選手権 Aディンギーに乗る> 「戦後の早稲田の成績はあまりよくない。私が入った当時は慶應の独壇場だった。 でも早稲田は船も多いし、戦前からやってきたトップクラスのチームだっていうプライドもあって、やるべきことはきちんとしてきたんだが、どういうわけかレースに弱い。我々のときも関東のインカレで三位しかとれなかった。」 「それと時を同じくして日大が関東の一部から落ちてしまった。 それで、日大OBに当時の巴工業の副社長がいて、「次の年、一部に復帰するために冬の間ヨットの練習をしようじゃないか」と言い出した。 そのころは11月から3月の初めまでヨットに乗る人なんかいなかったんだけどね。 そういう斬新な思想を持ってる人で、いろんなカッパなんかも用意して、結局日大は巴工業の冬の合宿にも出てる。 それでめきめきと伸びてきて、その結果3月から早稲田と一緒に練習するようになった。 一緒に練習することが功を奏して、彼らは一部に上がって関東で優勝、我々は三位。 その後、我々が全日本で優勝。やはりそれなりの練習をやった甲斐があったと思う。」
当時の全日本インカレは今と違って二日間だった。 早稲田が優勝した館山大会、1日目早稲田はダントツだった。 Aクラスディンギーの最初のレースに3艇出て、1・2・3早稲田だったという。部員の意気もすっかり上がっていた。 
「それでさ、当時のキャプテン、去年死んだ杉山博保が『明日はもう優勝に決まってるんだ。さて、しかし、俺たちは優勝ってのに慣れてないから、カップの授与や優勝旗の授与に慣れてない。 恥をかいちゃいけないから、これから、その練習をやろうじゃないか』ってね。

みんな大笑いだけど、彼の腹としてはみんなをあんまり緊張させたくなかった。 その勢いを持続したまま明日も一気に勝ってしまおうってわけだよ。 で、みんなで優勝旗の授与とかカップの授与の練習をして大騒ぎしたことあるよ(笑)」

そして翌日、その通り早稲田は優勝を決める。 もちろんA級ディンギーは大差でクラス別も優勝。 その時のA級のスキッパーは杉山氏、舟岡氏、当時3年生の武村氏だった

「あの頃、早稲田の心意気というかそういうのがとてもさかんだった。」

<早慶新人戦>
「私が最も誇りを持っていたのは、 台風が来ると、早稲田は声をかけなくても、全員が、どこよりも早く、横浜のハーバーに集まる。 そしてトラブルがないように自分たちの船を片付ける 他の学校はモタモタしてて遅い。早稲田はどこよりも早く集まって自分たちの仕事をやってしまう。 その後、YYC(横浜ヨットクラブ) にLクラスの船が30杯くらいあったのだが、それをYYCの従業員だけでおかへ揚げるのは大変だ。 そこで、早稲田の連中が力にまかせて、どんどん手伝って、揚げてしまう。 YYCに非常に感謝されて、早稲田だけはプールで泳いでいいとか。 我々のためにレースを設けてくれてカレーライスをごちそうしてくれたりした。

早稲田はシーマンとしてのやるべきことをやるというのがしっかりしていたと思うね。

<岩井合宿にて> 「あのころ (舟岡氏の現役時代) は早風があったことで我々はオーシャンレースにもでることが出来た。一度、早風がオーシャンレースで遭難しそうになってこわいことがあったなあ。 鐙摺港から出航、下田で泊まって清水へ行くレースだった。台風が上陸してるころにレースをやっていたんだ。 下田の灯台の点滅が嵐で見えない。 これはやばいって稲取に入った。 翌日のことだよ。その台風で洞爺丸が沈没した。」

「学生のレースは今より少なかったね。しかしオーシャンレースに出るチャンスがあった。 いろんな危険な思いもしたけれどヨットマンとしての基本的なものを学ぶチャンスはずいぶんあった。」

「今、並木OB会長以下、あなたたちをクルーザーにも乗せて、ヨットの全体的な知識を身につけさせようという動きがあるが、これは早稲田の伝統なんだよ。 ただ、一時期なくなってしまっていた。早風が事故に遭ってしまったからね。」

「早風のクルーたちはディンギーレースには出ないけれど、いろんなオーシャンレースに出たりしていた。 そういう意味で早稲田は幅の広い、層の深い存在として見られていた。」 「当時の学生ヨット界で一番大きいクルーザーが早風だった。 早風を失くして二年後、遭難した青柳君のお父上が「早風に負けない船を作ってくれ」とおっしゃって資金を出された。 足りない部分を大學も補って稲龍ができた。 早風 稲龍 、稲魂と移り変わって今日に至るが、どれも早稲田の旗艦だ。 いつも早稲田がトップを切っている。そういうプライドがあった。
OBの方々が稲魂に乗って、週末何回も江ノ島から三戸浜(早稲田大学ヨット部が練習している場所)までわざわざいらして下さって練習を激励して下さる。 練習を見に来てくださるOBの方々と、早稲田のエンジ色の旗を掲げている稲魂を見る度に、部員も「誇り」を感じることが出来る。
当時は7月に全日本インカレが終わり、8月に体育実技が終わって、9月頃代替わりだったという。 館山での全日本インカレが終わって舟岡氏は大学でヨットは終わりだと思っていた。だがそんな舟岡氏に転機が訪れる。 「家業を継ぐんだと思ってたら、一年先輩の松本さんから巴工業へスカウトされた。 当時巴工業にはA級ディンギーの選手がいなかった。 巴工業の副社長から舟岡を入れろって声が掛かっていると言われてびっくり。 就職するつもりなんかなかった。けど、とたんに、『あ、またヨットができる』そう思ってOKしちゃったんだよ。 その時はヨットをやらしてくれるなんてこんないい会社はないと思った。まさかそこで社長になるとはおもわなかった。1993年から社長を8年やった。 当時の体育局は運動部の連中の就職が決まると、事務所に札をならべたものだが、その年は私が一番初めだったよ。八月の初めにはもう決まっていた。」  

資料:『75年の航跡 早稲田大学ヨット部75周年記念誌』 p26 2006年刊>
そうして舟岡氏は巴工業でドラゴン級に出会い、東京五輪に日本代表として出場することになる。
「私にはプライドがある。 早稲田大学のヨット部にいたこと。 勉強はしなかったが、ヨットとなったらプロ意識を持っていたこと。 当時としては珍しく外国のレースにも出ている。 ヨットをやっていたという誇りはずっと持っている。 それは社長になってから効いてくる。 みんな私がヨットマンだったということも、オリンピック選手だったということも知っているわけだから。」
だから仕事で舟岡氏を接待する場合、取引先はよくヨットの用意をしたらしい。
「取引が成立した後に、向こうのご厚意で、ストックホルムのハーバーでスワン65を借りて、二泊三日、バルト海をクルージングしたこともあるよ(笑)それは一歩間違えば紛糾しかねない難しい会議の後だった。 ヨットというのは非常に深いものがある。海外でビジネスをする時、ヨット自体がひとつの共通語のようにね。 私はもう75だけど、ヨットをやっててよかったと感じる。だからその恩返しもあって、早稲田にはできるだけのお手伝いをしなきゃいけないと思ってる。」
今の現役のことをどのようにみていらっしゃいますか? インタビューさせて頂いているOBの方皆さんに伺っている質問をしてみた。 たしかに、今年早稲田大学ヨット部員には「自分たちは強い」という自負が少なからずあった。しかし全日本では結果を出せなかった。 部員は部員なりに悔しい思いをしたのだが、そんな現役の姿をOBの方はどういう思いで見て下さっているのかというのを知りたいからだ。
「あのね、勝負っていうのは簡単にいうと運がある。 実力ではおそらく今年日本一だったとレースを見ていて思う。運不運の問題であって、結果3位になろうが4位になろうがそれはしかたない。 それよりも、そこへ行くまでみんなが努力している姿。真剣にセーリングの技術を高めようとか、シーマンとしてやるべきことを学ぼうということに懸命になっている姿、それを見るとよくやっているなと思う。 かっこつける必要はないんだよ。楽しくやればいいんだよ。だけど、非常に危険なものがその裏にあるということを自覚してね。

たとえばレースではよく走らないけど、しかし台風になったら強いとか 船を大事にするとか シーマンシップというか、いろんな言い方があるが、そういうものを確立していることが望ましいなと思ってるね。 レースを見ていれば「連中よくやった」と、今回なんて素晴らしくよくやってるというのはわかる。今回なんて結果、運が悪かっただけで、経験は役立ってると思うし、誇りに思ってますよ。今のような形でヨット部が運営されていけばいいんじゃないの。」

続いて、舟岡氏は言葉を選ぶように

「今早稲田のOB会が二つに割れてるでしょ。それは悲しいことであるけれど、やっぱり起こるべくして起きたという感じもするな。あんまり・・・、なんていうか、ヨット部を思うままに動かすなんてことは良くないんだよ。 いずれはそれも終結すると思うけど、時間がかかるな。 ヨット部の学生たちが元気にヨットを学ぶ そのためにOBがいるわけだから、くだらない覇権争いなんかしてる暇はないわけだよ。」

 

現在、すでに早稲田大学ヨット部は新しいリーダーの下、すでに走り出している。 最後に舟岡氏は代替わりしたヨット部にエールを送って下さった。 
「キャプテンというのは非常に大変だと思うよ。 キャプテンがしっかりした考えを持って行動するということが大事だ。抽象的な言い方になるけど。 部員に早稲田のヨット部にいることに誇りを持たせる。 競技をする上で技術はもちろん大事だが、精神的な面が非常に大切だ。ようするに、即断。決断が早く出来てそれに邁進する精神。 ヨットレースが始まったら思い切りよく自分でコースを決める。失敗してもくよくよしない。そういう精神的な強さが必要だ。

何故こう言うかというと、我々のころは今のようなスタート方式ではない。今のスタイルでヨットレースに勝つためにはスタートが大事だ。 一番最初にスタートできることが一番いいんだが、それよりも、もっと大事なことは全速でもって、スタートラインを横切るという状態。あそこで勝負が決まる。

早稲田の75年の伝統と、みんなの練習をみていると、いつ優勝してもおかしくない状態になっている。 プライドをもって、あんまり鼻を高くしないで、謙虚な気持ちを持つ。 海に出た以上、全部自分が責任を持つ。命がかかっているんだという自覚に焦点をおいて行動する。 みんながそういうものを持っていればヨット部というのは自然に強くなるものだ。そう思います。」

 

今年強いと言われながら優勝出来なかったヨット部。 そんな部員たちにとって同じ全日本の舞台で「勝った」事のある舟岡氏の話というのは本当に興味深い。「憧れ」を感じる。 しかし、舟岡氏は「特別な練習は何もしていないはず」と言う。
「練習日数も、大会の数も今の方が多いと思う。 ただ俺たちは早稲田大学ヨット部にいるという『誇り』を人一倍持っていた。」そう話す舟岡氏の目は今もその『誇り』を持って生きている、と、語っているように感じた。
<1963年11月2日から3日にかけての天気図 資料:『75年の航跡 早稲田大学ヨット部75周年記念誌』p25 2006年刊>
44年前から今日まで、誰もが「見たこともない」というような天気図の嵐で、当時、学生ヨット界で最大のクルーザーであったのに、『早風』は失われた。・・・5名の現役と、指導してくださったお一人のOBと共に・・・ それは日本の大学ヨットが過去、経験したことのない大きな損失と挫折だったのではないか。『早風』から、今の旗艦『稲魂』へ。 その間をとぎれさせなかったのは、『稲龍』の建造だった。 事故のせいで存続の危機さえありえた早稲田ヨット部が、『稲龍』建造を実現できたのは、 『早風』と共に海に眠った、部員青柳さんのおとうさまの 「『早風』に負けない船をつくってくれ」 とおっしゃられたご意志だった。 稲龍はやがて1973年に、おそらく大学ヨットとして初めて、日本一周の快挙を果たす。

今、僕たちが基地にしている小島合宿所も、同じように、 『早風』と共に海に眠る 部員小島さんのおとうさまのご好意とご意志からなるものだ。

早稲田の心意気 早稲田のプライド

そして、僕たちは、今、もう一度 ”外洋へのチャンス” を与えられている。 昨年の熱海へのクルージング 来年に予定されている館山へのクルージング。

勝敗を超えて、”受け継がなければならないもの”は何か。 それをしっかりと、伝えていただいたインタビューだったと思う。

石合 幸彦

■石合 幸彦■

岡山県 児島高校卒業

1967年 早稲田大学教育学部卒業

(株)SB食品で17年間外洋中心に活躍

1968年  チャイナシーレース出場

1972年 サンバード号でシドニー・ホバートレース出場

1975年 ミヤコドリでトランスパック 

3位の快挙 シドニーホーバートレース再出場・サザンクロスカップ出場

2000年より早稲田大学体育実技セーリング授業講師

2002-2003年日本一周フラッグリレー 旗艦スーパーサンバード艇長として活躍

2003-2004年東京ヨットクラブJSAF委員 年 同クラブはこどもの日クルージング等のボランティア活動で東京都知事より感謝状を贈られた。  

ワールド大会になると向こうの連中はオリンピックメダリストがスキッパーで出てくる サンバードⅡ世は国内では抜群に速かった。しかし、あの当時、ワールドへ行くとなかなか厳しい。 負けると悔しいもんだよ。35年たっても、悔しい思いがいまだに、僕らは残っている。 
最初に石合氏の外見から受ける印象は「厳しそうな先輩」だ。長身に少し切れ長の目、低く落ち着いた声は非常に印象に残る。しかし、少し言葉を交わしてみるとその目にはヨット部を大切に思い、応援する優しい気持ちが宿っている事に気づく。 JR川口駅から車で10分の閑静な住宅街。 木の切り株をモチーフにしたおしゃれな机につくと石合氏は言葉を選ぶようにゆっくり話し始めた。 「大学3年まで横浜の本牧で練習してた。今のベイブリッジの辺りだよ。 そこに関東のほとんどの学校が合宿所を持っていたんだよ。 合宿所と言っても長屋の中を仕切っただけのものだったけどね(苦笑)ただ、早慶だけは別だった。 別棟の合宿所。しかも300~400坪はあった。海に面するようにね。周りに比べたらかなり贅沢なほうだった。」 石合氏の目は当時をはっきりと思い出し、懐かしんでいるようだった。 「もともと合宿所があった横浜のハーバーは、幻の東京五輪 (第二次大戦で中止になった) の開催地として国が開発した場所だった。 戦後、江ノ島に東京オリンピック用のヨットハーバーができたのと、本牧の埋め立て工事のために閉鎖になっちゃった。 本牧のハーバーの代替で八景島のヨットハーバーができのは平成5年だから、約30年間、本牧のヨットハーバーの大学はジプシー状態だったと思う。 昭和43年に早稲田は小島さんのご好意で立派な小島合宿所を提供して頂いたので大変幸運だったと思う。 我々の前後3~4年間が早稲田もジプシー生活で一番苦労した年代だと思う。」 「本牧のハーバーが閉鎖になった後、関東インカレは富岡海岸(現在の京急線沿線の京急富岡付近。潮干狩りで有名な海岸) で開催された。 それから森戸海岸へ移った。富岡では満足のゆく宿舎もなくて、早稲田は青砥会館っていう公民館が宿舎だった。 舞台なんかあるオンボロの建物で机を寄せてその上で寝る状態だった。たまたま富岡へ移動する時、僕と同期の中村重昭君が食当で、早朝4時前に起床、本牧の合宿所で朝食を準備し、終了後即、鍋釜、食器類をカツイでバスを乗り継いで、青砥会館へ移動。国道16号わきに、オクドを作り、全員の昼食を作った思い出がある。 酷い環境だったよ!まあ酷かったね(笑)」
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早稲田はその後、S45年に三戸浜の合宿所に移る。それまではまさにジプシーのような合宿生活を送っていたのだ。それでも新入部員は70~80人近く入ってくる。 「当時は新人合宿ってのがあって、それは『その70~80人の新入部員をいかにして少なくするか』だった(笑)。多すぎて合宿所に入らないからね。 今では信じられないけどそういう時代があった。今みたいにレジャーが多様化してないから、スポーツとかそういうものしか若者の楽しみがなかったからだろうね。」おおいに賑わったこともあって、石合氏の代は関東インカレで優勝してもいいレベルだったという。 。 「私は大学時代はスナイプだった。早稲田騒動なんかがあって、学校がしばらく閉鎖されてしまうし、大学のスケジュールもガタガタ。インカレの時に試験だなんて・・・。 そういう意味では(騒動に)巻き込まれたのは大変不運だったね。」

その後石合氏はS42年に先輩でもある現在の日本セーリング連盟会長、山崎達光氏が勤めるSB食品に就職する。活躍は外洋レースの舞台に移る。

「最初に出た外洋レースが68年のチャイナシー(香港~マニラ)レースだよ。 これはそのときの記念品。もう年代物になっちゃったけどね。」 
香港は石合氏にとっての初めての海外だった。 1ドル360円というドルの強い時代。 なのに、日本人が外国に行くのに500ドルしかくれなかったという
「足りるわけがないから闇ドルを手に入れていく。 そういうことから始まって外洋レースは、 自分たちの身は全て自分たちで守らなきゃならない。」
 
香港マニラレースに出航する<ふじ>(のちのサンバード1世) 写真:「NORCの航跡30年」(日本外洋帆走協会出版:1985)
「香港のワンラン灯台を目指して航海したのが3月の20日ごろ。 香港は英国領だったけど、中国の一部だから、ちょっとずれて中国側へ行ってしまうと紅衛兵に拿捕される。それが怖かったよ。 香港近辺はこの時期梅雨期で、台湾島の南端ガランピ岬(バーシー海峡)を通過して二昼夜、豪雨と雷雨の下でのセーリングは辛かった。 二日目の早朝、やっと香港の近くの島々が見えてきた。 香港島入り口のワンラン灯台は、小高い丘の中腹にある。 朝霧の中に浮かぶ白亜の灯台を確認した時は感動的だった・・・。」
「香港水道に入ると、左に香港島、右側が九龍サイドで、港のほぼ中央に英国の大型空母一隻、巡洋艦数隻が停泊していて、ユニオンジャックの旗がたなびいていた。 へたすりゃ海賊みたいのにつかまっちゃうようなおっかなびっくりの航海だったので、英国の軍艦を見た時は嬉しかったよ。つくづく、国家の基本は軍事力だと思った。」  <1971年のワンラン灯台>
「香港にはレースの2週間前に到着したが梅雨で天気は悪く、居心地は決して良くはなかったように記憶している。いざマニラまでのレースが始まったかと思えば、2日ぐらい全く風がない、ひたすら暑い。 朝見たゴミが夕方まで一緒にいる状態。」
「それでもなんとかぷかぷかしながら少しずつ進んで、コレヒドールの灯台まで六日くらいかかったか。 ルソン島の影が見えた。マニラに入るのにまた小1日・・・ まだ対日感情が悪くてマニラは居心地が悪かった。 泥棒・強盗なんかもいたし、レースの結果もあんまりよくなかったけど、あのレースが僕のヨットの原点だったと思う。」
「サンバードというフネのお話を聞かせて頂けませんか? 歴史に残る名艇だったそうですね。」
<サンバードⅡ世> 写真:「NORCの航跡 1954-1999」(日本外洋帆走協会出版:2000) 「サンバード号は(株)ヱスビー食品のヨットでSUN-BIRDの頭文字(SB)はヱスビー食品の社名なんだよ。山崎会長(S32年卒OB、現JSAF会長) が若い時より情熱を注いで建造したヨットの総称だ。私がサンバードのクルーとして関わったのは、昭和41年から昭和47年の7年間。 その後アメリカズカップのキャンペーンが16年続いたわけだ。」

「まず”フジ”を買って”サンバード”という名前にした。 その後、”サンバードⅡ世”号、1トンクラスの舟を建造した。 38ft、オールマホガニー材の木造艇、最先端の艇でNORCのレースを総なめにした名艇だった。 目的は72年のシドニーの1トンのワールドカップに挑戦することだった。 ・・・16艇中14位。散々負けたけどね。

ワールド大会になると向こうの連中はオリンピックのメダリストがスキッパーで出てくる サンバードⅡ世は国内では抜群に速かった。 しかし、あの当時、ワールドカップやオリンピックでは日本のヨットは勝てなかった。

だけど、負けると悔しいよ。35年たっても、悔しい思いで一杯だ。」

国内トップレベルの艇を作って挑戦した。しかし結果は無念だった。 とにかく 「日本の外洋レースも全体のレベルが上がらないと勝てない」 と感じたという

「我々が(海外に)行ったのも一つの礎なんだよ。 そういう(敗北を)ひとつひとつ乗り越えて強くなっていく。」
その後、75年に54ftの”サンバードⅤ世”を建造、同時に同型の”都鳥”というフネも建造した。「サンバードは人手があるから私は”都鳥”のほうを手伝って、トランスパックに出た。 そしてサンバードと一緒にシドニホバートに再挑戦、それからサザンクロスカップにも出た。」 中でもトランスパックでは、クラス分けで一番大きいAクラスで出場。16艇中3位に入った。

75年のトランスパックには、かの有名な石原裕二郎氏も乗っていた 「私がクルーのまとめ役をやってたんだけど、トラブルがいっぱいで大変だった。」

 

その時のトラブルとは次のような事だ。 当時飲み水として900Lの真水を積んでいたのだが、そのタンクがキールの上に乗っていてボルトが清水タンクの中にあるという構造だった。 バラストキールが9TONあったので、負荷がボルト部分にかかり、隙間が出来てしまい清水タンクの中に海水が入ってきてしまった。
<都鳥Ⅲ世> 写真:「NORCの航跡30年」(日本外洋帆走協会出版:1985)
<サンバードⅤ世> 写真:「NORCの航跡30年」(日本外洋帆走協会出版:1985)

「水がないのが一番きついよ。 海水で米を洗って炊いたら、ショッパくて食べられない。 海水って言うのはショッパいものだとつくづく感じた。 レースも後半、あと3日はかかる位置でほとんど水が無くなってしまった。 最後はライフラフト(救命いかだ) の中に緊急用の水があるからあと二日なんとかなるかな。そう思ってた。 ・・・まあその水までは飲まないで済んだんだけど

 

裕二郎さんが瘠せてすっきりしちゃってみんなびっくりしちゃった。(米も炊けないから)ほとんど最後の方は飲まず食わず。 よく太ってるやつはまだいいんだよ。ちょっとしぼむくらいで。(笑) やせてるやつは顔を見てると、なんか寒くなるようでね。 もう完全に脱水症状だよ。」

「そんな過酷なレースだったのに、裕次郎さんは気遣いの細かな人でね、二週間のレースの間、いつも爽やかで、周りの人達を元気にしてくれた。 本当に素晴らしい海の仲間だった。」

 

<S52年サンバードに乗る石原裕次郎> 写真提供: 甲南大学クルージング部 OB島田宏氏
「実はその時、裕次郎さんは病気上がりで体調も完全では無かった。 私は心配で、レース中は、心配と責任感で夜もよく眠れなかった。 後に、お亡くなりになった時、葬儀に参列させていただいて、 「あの時は大変申し訳ありませんでした」と焼香させていただいた。 いまだに、あの爽やかなお人柄を思い出しては申し訳なくおもっているよ・・・」
それから月日が流れ、昭和56年。 日本がアメリカズカップに挑戦することが決まった。 だが、ちょうどその頃、石合氏の父が亡くなられ、石合氏はSBを離れ、父の会社を継ぐこととなった。
<石原慎太郎東京都知事とスーパーサンバードで> 「アメリカズカップへの挑戦は山崎会長が中心で、準備期間が四年、そのあと本戦チャレンジ三回、合計16年。 日本ヨット界の大キャンペーンだった。 武村OBも、チームの事務局長として強力にバックアップした。アメリカズカップは世界中から呼んだプロの選手や50名以上のスタッフがチームを組んで挑戦する。 国力を賭けての一大チャレンジだ! セールをつくる技術、フネをつくる技術、セーリング技術、チームマネージメント。 蒲郡基地を中心に16年の挑戦は日本のヨットのレベルアップに計り知れない貢献があったと思う。 アメリカズカップへの挑戦がなかったら、今の日本のヨットレベルはなかったと僕は思っている。 大挑戦を立ち上げ、やり抜いた山崎OBに、最大の敬意を表したいと思います。

「ただ今のアメリカズカップはお金の世界というか、コマーシャルベースになってしまった。 少し、残念に感じる部分がある様に思われる。 昔はもっと純粋なセーラー魂をベースにしていたと思うよ。」

石合氏は世界一周のボルボオーシャンレースを外洋レースの究極だと思うと語る。 チャレンジ性もある、氷河が浮いているような所を30ノットの速さでぶっ飛ばしていく。 非常にハードではあるが、冒険心をくすぐられる。 
「日本もボルボオーシャンに挑戦するという話が出ているけど、とても嬉しいし、血が騒ぐよ。 実現するかは容易じゃないにしても、僕は(アメリカズカップより) そっちがいいね。」 
石合氏はSBを離れて15・6年もヨットに乗らずに仕事に専念していた。 そして今からおよそ7年前、早稲田大学体育実技の講師を依頼された。
「最初にやってすぐ、もう岩井を変えようと思った。」
「早稲田の実技は昭和24年にスタートしたそうだ。そんな早くから熱心にヨット実技をやった大学は早稲田くらいだろうと思うよ。 当初は、本牧ハーバーでの通いの実技。館山海岸実技合宿。岩井海岸での実技合宿は昭和41年より平成12年まで年間続いた。 平成12年講師をお受けすることになり、初年度は岩井実技を受け継いだ。 実技の環境も様変わりで、特に、かつて全学生必修科目であった体育実技が 選択科目に格下げになっていたことが大きな変化だった。当然、定員割れ状態で、このままでは、閉講になる予感がした。 今の学生に受ける実技には、場所の問題が一番だと感じ、 佐島に移すことにした。 実技生の負担は85,000円と、倍近くになったが、 多くの実技生が履修しているよね。 今の学生は、満足度には出費してくれるものだなと実感した。」

体育実技のヨットとは要するに「初級ヨットスクール」だ。 初心者のためには海のコンディションも、設備も充実しているに越したことはない。 現在実技を行っている神奈川県湘南の佐島マリーナは、 ハーバーに隣接するように非常にきれいなホテルがある。お風呂も大きいし、プールもある。環境は申し分ないと思う。

「なにより実技生にとって楽しい実技でなければと思う。 実技生にとって楽しい実技は、洋上でのセーリングチャンスをいかに多くするかだ。 陸上での手旗訓練等は興味がない。そこで、OBに協力してもらってクルーザーも出して 実技生は、クルーザーなりディンギーなり 期間中はいつもヨットに乗れるようにした。、 でもこれにはOBの手助けが不可欠。

私がいつも言ってるのは 『今の佐島の実技は 講師、現役部員、OBの三位一体の体制』

協力してくれるOB仲間には本当に感謝している。 早稲田ほど質の高いヨット実技を実行している大学は 他にないと思うよ。」

本当にその通りだと感じる。 現にヨット実技を取ってくれた生徒は皆「楽しかった」と言って佐島を後にしていくし、 毎年定員を超える応募者があり評判も良い。 ヨット実技も、将来ヨットを楽しんでくれる仲間を増やす、有効な”未来への礎”なのだと思う。
そして石合氏は最後に『ヨットの楽しさ』について次のようなメッセージをくださった。
「私はヨット大好き人間! 私は早稲田ヨットクラブ大好き人間! 何かのご縁で早稲田大学ヨット部に入れて頂き、幸運だったと思う。良き先輩に恵まれ、良き同僚に恵まれ、良き後輩に恵まれ、 楽しいヨットライフを続けられるのも、早稲田ヨットのお陰です。

血眼になって勝ち負けにこだわったヨット。 海外のオーシャンレースに夢中になったヨット。 それぞれに楽しいヨットでした。

最近はセーリングが楽しくてたまりません。飽きを感じません。 瞬間瞬間、風が違います。風と遊んでいるので、飽きることは無いのです。 今後とも風と語らいながらセーリングを楽しみたいと思っています。 ヨットが私のライフワークであるように、現役生達もぜひライフワークとして楽しんでほしいと思っています。

最後に、今日まで、私のヨットを支え、ご指導いただいた山崎会長(S32年卒OB、現JSAF会長) 武村OB(S32年卒OB、現JSAF事務局長) に心より感謝もうしあげると同時に、心より御礼申し上げる次第です。

今回石合氏は一人の先輩としてたくさんのお話、そして何より現役部員にエールを送って下さった。「我々が(海外に)行ったのも一つの礎なんだよ。 そういう(敗北を)ひとつひとつ乗り越えて強くなっていく」 というお言葉があったが、本当にその通りだと感じる。

これまでの先輩方の努力、ヨット部に対する想い、がほんの少しでも足りなければ、今のヨット部の快進撃はなかっただろう。

このインタビューは全日本インカレを目前に控えた状況でお伺いさせていただいたが、 今年度の全日本インカレが無念な結果に終わった今、 このような先輩の経験に裏打ちされたお言葉ほど現役部員を奮い立たせるものはない と、しみじみ感じる今回のインタビューだった。

武村 洋一

■武村 洋一■

早稲田大学高等学院ヨット部出身

早稲田大学第一文学部卒業

1952年 宮城国体 高校スナイプ級優勝 クルーは現OB会長並木茂士氏

1955年 全日本インカレ優勝 MVP受賞

1968年  チャイナシーレース出場・往復回航スキッパー

1975年 シドニーホーバートレース出場

1992年・95年・2000年 日本チャレンジチームスタッフとしてアメリカズカップに挑戦

1994年-95年 早稲田大学ヨット部監督

2000年 シドニーオリンピック セーリングチームスタッフ

2001年よりJSAF(日本セーリング連盟) 事務局長として日本一周フラッグリレー、愛・地球博国際セーリングシリーズ等のビックイベントを多数運営

 

「俺はシーマンシップで一番優れているのは漁師だと思う。 船の扱い、ロープの扱い、天候の予測・・・非常に優れている。 ややもするとシーマンシップというのはスポーツマンシップと混同されて精神的なものと捉えられがちだけれども そうじゃない・・・」
<今年国際セーリング連盟が発足して100年になる> 原宿の岸記念体育館。 ここにはJOCの事務局を始め様々な競技団体の事務所がある。 一階のラウンジ、向かい合って座ると武村氏は 「どんな話をすればいいんだい?」 ニコニコしながら聞かれた。 「武村さんが現役の時のお話からお願いします。」「俺が学院のヨット部に入ったのが昭和25年。1950年だよ。 まだ戦争が終わって5年しか経ってないから交通事情も食糧事情も発展途上。 そんな中でヨットを始めたんだ」
0 もちろん、まだプラスティックなどの石油製品もない。 ヨットは木造、セールは木綿 ロープは麻か木綿だった。 「着るものがまた酷い。 今みたいにウエットスーツもドライスーツもないからね。 普通のカッパとか着てやるんだよ。だから冬なんて乗れなかったね」したがって当時は11月半ばから翌2月いっぱいはシーズンオフだった。 船は陸(おか)に上げコモをかぶせておく。 三月にコモをはがし、最初にペンキを塗りなおす。それからシーズンを始めたという。
当時の学院ヨット部は何人いたんですか? 「10人くらいかな。そんなに多くはなかったけど強かった。」 当時はインターハイというものはなく、国体の高校の部が高校生の一番大きな大会で、国体の東京代表は学院と決まっていた。 「東京代表を争う相手はいなかった。いや、相手はいたが、相手にならなかった」 という。事実昭和26年の広島国体の高校生の部で学院は優勝している。 次の年、昭和27年に初めてスナイプ級が国体の高校の部に採用された。国体はA級ディンギーとスナイプ級の2種目となった。 話は昭和27年の宮城国体のことになる。

 

「当時はスナイプはリーフ (縮帆) もしたんだよ。」 「風が強くなってきてさ、リーフしようかって話をしたんだけど、めんどくさいからしなかった(笑) みんなリーフしてるなか、一隻だけフルセールで出てぶっちぎりに走っちゃって優勝したんだ」 (風の強すぎる時にはリーフしてセールの面積を減らさないと船にパワーがつき過ぎて危ないことがある) その宮城での国体、武村氏の相方で「めんどくさいからこのままいっちゃおう」と主張したのが並木氏だった。 「ハイクアウトに自信があったのだろうね。」
「当時学院のヨット部はクルーザーは持ってなかったんですか?」
「学院のヨット部はA級ディンギーとスナイプの2クラスで大学と同じだから、学院ヨット部がヨットを持つ必要がなかった。大学と一緒にやっていればよかった。ふつうの練習もいつも大学生と一緒にやっていたよ。」
練習を大学生と一緒にやっていた時の面白いエピソードがある。「そのころはね、新入部員のことをフレッシュマンと言った。 学院(高校生)だろうが、大学の二年生だろうが (入部して)一年目はフレッシュマン。 その上が二期、三期、上期。 だからたとえば学院の二年目は二期・三年目は三期になるでしょ。それが 大学生のフレッシュマンを呼び捨てにしていい。 呼び捨てにしろ と言われたんだよ。」 つまり学院ヨット部の高校二年生が大学一年生を呼び捨てにする。 大学一年生は学院ヨット部の二年生に敬語を使うということだ 「これは非常にやりにくかったね。 まあ、さすがにこの習慣はしばらくしてなくなったけど(笑)」

海の上は年齢ではなくて「年季」だという考え方だったのだ。

<2007年第十七回全日本A級ディンギー選手権:牛窓ヨットハーバー> 一番右 セールNO,1 早稲田艇 写真撮影:小川知廣氏
武村氏は大学4年間をずっとA級ディンギーで競技した。」
「君らが今乗っている470もスナイプもスループヨット(二枚帆のヨット)でしょ?A級はキャットリグ(一枚帆のヨット)なんだよ。セールも木綿で、濡れると縮んでしまう。」
セールは縮んでしまうとどうしようもない。 大きさも変わるし、セール自体のシェイプも変わってスピードが出ない。
「だから早慶戦は当時から二日間あったけど、一日目が雨だとわざと古いセールを使う。そういうセールの選択にも作戦もあったな。」
このころの早慶戦は毎年5月の第一週と決まっていた。 A級5隻、スナイプ5隻で戦った。当時は慶応の方が強かったという。
「早慶戦をやる時には他の学校の連中はその水面を走らない。そういう礼儀が決まっていた。 だから、新興大学の知らないやつがたまに出てきたりすると、「コラッ」って怒鳴りつけて帰らしたもんだ(笑)その代わり他の大学が定期戦やってる時は早稲田が遠慮してた。」
神聖な場としてお互いに尊重しあっていた…ということだと思う。 「そういう”礼儀”、昔からの”伝統”が生きていた」 という。
「ちょっと今では考えられないと思うけど、横浜のヨットハーバースタートラインは岸壁の目の前でスタートラインにつくんだよ。 陸上にポールが立ってて、そこに信号旗を揚げる。 こんなでかい玉を5つ上げてて、一分毎に一つずつ下ろしていく。そういうスタートの仕方をしていたよ。」. ここでも面白い話がある。時計の話だ
「昔の時計はもちろん防水じゃないでしょ? だから海につけていくと濡れて壊れちゃう。 だから俺らはコンドームを買ってきてさ(笑) その中に時計を入れて海に持ってってた。 ”コンドーム係”ってのも部内にあった(笑)」
. 「そこでスタートの話に戻るけど、、」 武村氏はまたニコニコしながら口を開いた。また一つ面白い話が始まる。「当時はちょうど1分間で歌いきれる歌も考えてたね。」

どういうことかというと、陸上のポールに5つの玉が上がっている。 それが1分毎に一つ降りるわけだから、 ちょうど1分で歌い終わる歌を5回歌い終わった時に スタートになるというわけだ。

「たとえば“もしもしカメよ”とか、そういう歌だよ(笑) 歌のどのへんだから、今、スタート何秒前だ。みたいにカウントしながら、海の上でスタートラインをキープしていた。 まあ、アヤシイもんだけど(笑)」
これも一つの工夫だったのだ。 スタート前に相手を睨んでけん制しながら 「もしもしカメよ」 と、口ずさむ 先輩方の姿が目に浮かぶ。
武村氏はアメリカズカップの日本チャレンジや、愛・地球博記念国際セーリングシリーズなどの大きなイベントに数々関わってこられた。 話は初めての海外レースに移ってゆく。
「当時はね、素人が外国へなかなか行けない時代。 とんでもない理由・・・オリンピック代表選手とかでもないと、素人はパスポートがもらえない。 戦後初めてヘルシンキに行ったでしょ?アレが1952年だから。 そのときは海外で練習もなしに、ただ行っただけ。東京オリンピックが昭和39年(1964年)そのちょっと前くらいからな。 やっと海外遠征がぽつぽつ始まった。」
それもそうだろう。当時は固定相場制で一ドルが360円。 武村氏が初めて海外に行ったのが昭和43年。その時もまだ一ドル360円だった。
「これがちょっと不思議な話なんだけど、始めての海外旅行が俺はヨットなんだよ。 飛行機じゃなくてね。」
チャイナシーレース(香港~マニラレース)に出場するためだ。
「その時はGPSなんてもちろんない。 無線や他の機械もヨットにつめるようなコンパクトなものはない。だから結局、なんもナシで行ったんだよ。 じゃあどうやって船の位置を出すのかというと、天測だ。」
天測といえば星を使うイメージだが、武村氏たちは太陽を用いたそうだ。 ヨットはスピードがそんなに速くない。1日に1度測れば充分だったという。
「数ヶ月前にセクスタント(六分儀)という天測の機械を買って練習を始めた。 海上保安庁の巡視船に乗せてもらって船長に教えてもらう。 さて意気揚々とレースに向かったが、天測で外洋航海するのも初めてだ。 チャートにプロッティングって、船位を入れていくんだけど、それが正確かどうかがわからない。 海しか見えない、陸(おか)が見えないから、信じるしかないわけだ。」
「あれはちょうど出発して10日目くらいだったかな。 ”今日の午後四時南大東島を通過する”とその日の午前中に天測で予測を出した。 そして、「今日の午後四時に南大東島を通過するよ」と俺は宣言した。俺は艇長だからな。だけど、ほんとはわかんないわけだよ。(笑) ワッチを交代して寝たんだけど、心配で寝れなかった。

で、二時くらいだよ。 当直が「見えた!!」って言ったんだよ。 (南大東島はまっ平らな島影だ) で、見えてから二時間くらい走って、ちょうど午後四時に南大東島を通過した。

あの時はね、俺は本当にほっとしたんだけど、それ以上に 天測の正確さというものを身をもって感じてびっくりした。そういう体験がある。それは面白かったよ。」

シーマンシップという言葉がある。 いろいろな捉え方があるが、武村氏はこれを “海の上で生き残るための技術“ だと説明する。 「今は天気図なんてインターネットですぐ手にはいるだろう? でも、天気図は自分で作らなきゃならなかった。 ラジオで気象通報を聞いて 自分で天気図をつくって予測をたてる。

ところが海外へ行くと 電波が届かない。短波放送なら世界中に届く。短波専用ラジオを積んで毎日二回聴いて天気図をつくる。

吹いてくる二時間くらい前から、短波で荒天気予報聞きながら、長靴はいて、セール縮めて、「さあっ 来い!!」って構えていた。

船も人間も強かった。 それが外洋航海の基本なんだ。」

「シーマンシップというのは“海の上で生き残るための技術“なんだよ。 知恵とか技術」 「当時のヨット部は普段はディンギーに乗っていたけれども、常にシーマンシップを意識して身につけよ、と教えられたし、 それを、俺たちも一つの目標にしていた」
武村氏の話はこのように本当に「面白い」。勉強になる。 これはヨットをやっていない人が聞いても同じように面白いと感じるのではないかと思う。 そして武村氏は現在のヨット部の状態を「最高の状態」と形容した。 それはヨットに対する情報を豊富に持っている畠山監督がいること、部活として現在結果を残せていること。その2点を備え、部内の雰囲気が良ければ、それは部活として最高なのだ。

「帆走とは本来、自由闊達な人間の行為であり、その基本は冒険心と創造性でなければならない。 だから、「魂」とか「根性」となどと、なかみのない言葉をふりかざすより、『笑進』っていかにも肩の力が抜けて、自然体でいいね。 それがチームワークにつながって、レース結果にも表れていると思います。」

そう、話してくださった。 また大学ヨット部とは、 「ヨットの基礎を学ぶ場所。大学後のセーリング人生を花咲かせるための準備をする場所だ。」 と語る。 ヨットは競技生命も長く、選手としてのピークが年齢的に高い。 「だからこそみんなには卒業してもヨットを続けてほしい。」 僕たちがよく聞くこの言葉も、一度武村氏のお話を伺えば、非常に心に響くものだ。

武村氏は現役生のためにメッセージを用意していてくださった。それを原文のまま掲載してしめくくりたい。
現役生へ 私が大学に入学したときに、新入生に対して、ある教授が次のようなことを言ったのを覚えています。もう50年以上昔のことです。 「教科書や専門書はななめに読んでよろしい。小説を読みなさい。小説を読んで、そのページに落とす一滴の涙を大切にしなさい」 そして、さらに続けて。 「スポーツをやりなさい。それも、本格的にやりなさい。生涯OB(OG)としてそのスポーツの雰囲気に浸れるようになりなさい」 いま、私は、ヨット部の学生諸君と、共に笑い、喜び、口惜しい思いができることをこの上なく喜んでいます。 読書 高校生の頃、岩波新書で 池田 潔 著 「自由と規律」を読みました。 ヨット部に入って、本格的にヨットを始めて、スポーツマンシップとは、なんて真剣に考えていた頃でした。 この本を読んで、スポーツマンシップの答えが見つかったような気になったものでした。 そして、noblesse oblige という言葉に出会いました。ラグビーが好きになりました。 忘れられない少年期の1冊です

誇り 大げさなものでなくてもいい。自分だけの、小さな誇りを見つけて、それをいつまでももち続けてください。 他人に言うと、なんだ、そんなこと、と言われるかもしれませんが、そんなことでいいのです。 あの時、俺は、こうだった。私は、そう思って行動した。 それが君の小さな誇りであればいいのです。 そんなひそかな誇りが、生きる支えになることがあります。

並木 茂士

■並木 茂士■

早稲田大学高等学院ヨット部出身 早稲田大学第一理工学部卒業 1977年・1993年トランスパックに出場 その他世界の海で数多くのレースに参戦。 日本外洋帆走協会会長・チーム月光会長を歴任 2003年からヨット部OB会長

 

「同じスポーツの先輩後輩としてきちんとするのは良い事だけど、学生はOBの子供じゃないのだから。 ネコかわいがり、飯食わせて酒飲ませて、家へ来いとか居酒屋へ来いとか。それは人間が進歩しないよ。 そういうのは俺は好きじゃない。」「かわいがることと教えることは別問題。」 と話されたのが印象的だった。

油壺の細い路地を入って行った先に、ガラス張りのひときわきれいな建物がある。 この「月光ハウス」は1960年に建築されてから長年セーラー達の憩いの場となってきた。そのリビングに互いが斜めに向き合うように座る。すると開口一番 「今年の琵琶湖(全日本の開催地)ではさ・・」 最初からヨットの話になる。「湖だから潮はないけど、藻がすごく多いからセンターだけじゃなくラダー(舵)も上げるような練習をした方がいい」 ただ激励の言葉をかけるのではない。技術的なアドバイスなのだ。 そして言葉の隅々にはどれだけ長い間確実に早稲田大学ヨット部を「見て」きたかが現れる。 そして話は徐々に過去へと遡る。
    「俺は学生の時はスナイプ乗ってたけど、レースの中心はほとんどがクルーザーだよ。      米軍のアメリカ人やらイギリス人がいい船持ってたから、その船とのいろんなレースに出ていたね」         
今の学生はほとんどがディンギーに乗っている。 大学ヨット部と言えばほとんどがディンギーの大会に勝つことを目標としていて、クルーザーに乗る機会はめったにない。 しかし以前は逆だったのだ。「だから引越しの時とかに賞状が出てきて、『あ、俺 全日本で勝ってるんだ』って(笑)あんまりディンギーのことは覚えてないんだよね」
前会長 土肥氏は並木氏の後輩であり、並木氏のクルーだった。 それまでの早稲田で役員は後の代に引き継がれて行くもので、先輩である並木氏が会長を引き受けるのは異例のことだった。 「どうしても頼みます。私じゃどうにもならないから。ぜひお願いします」 土肥氏ばかりではなかった。多くのOB 並木氏の先輩後輩が入れ替わり立ち代り説得に現れた。 並木氏は 日本海洋帆走協会という外洋部門の会長で、日本セーリング連盟との合併を果たしたところだった。 「よし、じゃあ 俺の好き勝手にやらせろ」それが会長就任の条件だった。2003年のことである。 そして2005年7月畠山氏を監督に据えた。

それから2年。 「今年からは学生の個々の性格とか技量とかも把握できると思います」畠山氏は今年言っていたという。

「学生のためにね、やっぱり、強くしなくちゃいけない。 強くなると楽しいだろう。胸に日の丸付けて。 東京オリンピックの時は早稲田OBから何人でたか。 その後行ってないだろう。」

実際 早稲田は年々インカレ最終順位を上げてきている。 2005年 3位 2006年 準優勝 今年に入っても史上初の春の関東インカレ完全優勝に始まり、 出る大会は全て早稲田が優勝している。

「今年の琵琶湖はこの間畠山に言ったよ。 三戸浜で練習する時、スナイプはさっと舵ぬいてさっと入れる方法練習しろ 舵を切らなくても、舵ぬいてもまっすぐ走ることを練習しろ 5・6年前畠山に言ったのは、J24でも、舵を使いすぎず、人間の体重移動とジブとメインのトリムだと。 舵切る時はジャイブとタックとマーク回航だけだと。そういう教え方は4・5・年前までわかる監督がいなかった。 畠山には、Jからのそういう事を、ディンギーで学生に教えて来いって言っている。

タダ根性じゃ走るもんじゃない。根性はみんなあるんだから。 昔、日本は大和魂だって言ってたけれど、そんなのアメリカだってアメリカ魂あるんだから。 この間のインカレ,去年の全日本ではだいぶよくなった。」

確かに早稲田は強くなった。 しかし並木氏は単に大学競技で強いだけでは満足しない。 大学ヨットを越えてめざす姿のイメージがあるのではないか。 どうしても学生に「遠くを見ながらやるレース」を体験させたいと語る。
「この相模湾は南から西へひらけてるでしょ。 雨が降るかとか風が変わるとか吹くとか一目瞭然わかるんだよ。 三戸浜でディンギーだけやってるのではわかんないんだよ。」
並木氏が学生のころは当時横浜の合宿所から東京湾を下って館山まで回航していくイベントがあったという。 しかしそれを出来るのは2年生から。だから1年生はその回航を楽しみに1年間頑張るのだという。 
「それだけの長い距離仲間と一緒にヨットに乗れば興味も沸く。 技量もあがるし、何より、海もヨットも好きになる。」 「何年か前オックスフォードの連中が来てスナイプと470で4回づつレースやったことがあるんだよ。 そしたら、向こうの連中、初めて来た海で、1・2・3・4位だよ。なぜかって、赤ん坊の時から親と一緒に乗ってるわけだよ。 子供の時、ワンハンドやる 学生になってダブルハンドもやる・・」
「センスでもない、体格でもない。 要はヨットというものをディンギーだけに固執しないで大きく捉えることが重要なのだ。 と語る。 
75周年の記念式典の時には大学総長に「早稲田でアメリカズカップに参加出来ないか」という話も出たそうだ。

しかしさすがにそれは難しい。

「でもそういう『夢』でいいんだよ。 夢は50年も見ているうちにほとんど実現していくからね。 今日明日にっていうのは無理だけど」 

「俺だっていつかは太平洋トランスパックいきたいなとおもってた。1907年から今年で日本人がヨット始めて100年だよ。 俺がヨットやったのは1957年 その20年後には太平洋横断とかやってるんだから。それには一日も忘れず、神田行ったりして外国の本を買って アメリカのヨットの雑誌を買ってそれを持ち歩いて、ふだん勉強しないんだけどヨットの本だけは勉強するんだよ。何月の風向は気温は潮はとかどんなヨットがいちばんそのレースには合うかとか・・」  
見続けているうちに夢はだんだん近くなってくる  と並木氏は語る。 事実並木氏はヨットを始めて20年で太平洋横断レース(トランスパック)に出ている。 そして今の夢は世界チャンピオンだと話してくれた。それは20代で胸に抱いた夢だった。 最初は遥かな夢であるようでも、胸に抱き続け、英語で本を読んで勉強を続けたり、 足元のひとつひとつを積み上げていくことで、いつの間にか夢は手の届くところに寄ってきてくれるのだ。 夢を抱いて50年近く。世界チャンピオンの夢が今の並木氏の手の届くところに近づいている。
「出来る限り若いあなた方には太平洋横断くらいな。 ヨットでパスポートもって違う国行くの楽しいぞ。 飛行機で行くなら誰だっていけるんだよ。」 “誰でも”の人生じゃつまらないだろ そういうメッセージが彼から伝わってくる。

 

太平洋横断とまではいかないが、現在ヨット部も7月の末に油壺から熱海までのクルージングを予定している。 クルーザーに乗る、そして大きな海を知ることの出来るまたとない機会である。
先にもJ24と話に出たが、月光というチームがある。とても歴史のある強豪チームだ。 2005年には世界大会で日本人として初めて5位になった。 今年も月光はメキシコで行われたJ24世界選手権に出場した。そのチームについて並木氏はこう語った。
「月光は昔から早稲田だけで固まるなんてことはしてなかった。 たしかに早稲田が多いから他の連中は入りにくいかもしれないけど、一回入ってくれば誰も学校なんかで差別しないから。 明治 神奈川大 半分くらい他の学校。でも、学校がどこなんて考えたことない。 ひとつのチームだから。」

もちろん月光ハウスも早稲田の人間しか入れないわけではない。 今では並木氏の同期で他大学で活躍していたかつての仲間たちの 息子さんたちも月光ハウスを訪れるらしい。 そんな開かれた空間なのだ。

2007 J24 メキシコ世界大会
創部75周年式典 最後に「並木会長の考える早稲田大学ヨット部のあるべき姿とは」 という質問に対して並木氏は

「今現在ある姿があるべき姿の第一歩だよ」

 

と嬉しそうに言って、少し間を置いてから

「学校がきちんとあって、部長がいて監督がいて学生がいて、それが上から下まで一本になっている。 OBは資金的にも精神的にも、サイドから離れて応援する。入り込むようなことはしない。」

「と言っても、学生の自主性に任せきるわけではない。 きちんと物事をわかっている者が上から命令して、それをしっかり実行する。それはとても大事なことだ。 その姿を続けてきたからこそ近年の快進撃があるのだ」

と言った。

「なにもヨットの成績だけじゃない。 人間的にも社会できちんとした人間ができてくるんじゃないの。 君たちは海で上からの命令をきちんと聞ける訓練をしている。 フランスの一流企業20社くらい集まっていつも地中海でよく試験をやるんだよ。 ヨット30艇くらいだして4・5人づつ載せて会社の社員がのって3日4日のりっぱなして人間をチェックする。そういう試験の方法をやっている。それをあなた方は一年中やってる。」

・・・強くなること 本当の夢を見ること ヨットから人生全体を支える基本を学ぶこと。

並木氏は70歳台の今も世界チャンピオンをめざす現役のセーラーである。 そしてヨット部75周年にあたって今日・明日を築きながら、次の25年、 つまり100年目の早稲田ヨットの姿を明確にイメージしているOB会長である。
しかし、何より それ以上に彼は一人の偉大な教育者だった。