早稲田大学ヨット部


■土肥 丈志■

東京都 芝学園高校卒業
1961年 早稲田大学第一文学部卒業
    卒業後20feetのJOGを始めとし1998年まで、『DABOHAZE』チームとして外洋レースを中心に活躍。
1964年 『月光』のクルーとしてチェイナ・シーレースに参加
1995年 J24シニアワールド サンフランシスコレースに参加

舵社 相談役
2001年〜
東京ヨットクラブ 相談役
2002-2004年 OB会
早稲田ヨットクラブ 会長

「二期に成るはずが、新しく入部してきた新人と同じ扱いで、また下積みからやり直す。
すでに独りで船を扱えるようになっているのにね。
他人には云えない屈辱感を味わい、いっそのこと辞めようかとも悩んだ。

だが、『早風』という大型ヨットに触れられる魅力は、どんな辛さにも換えがたい魅力だった。
世の中、理不尽と思えることでも、自分の将来のためには、耐えざるを得ず、
それに耐えて乗り越えた時にまた、新しい未来が拓けてくる
あの貴重な体験が、現在の僕を育ててくれた。

早風のキャビンの、ペンキとマニラロープの入り交ざった臭いを、僕は今でもありありと思いだせる・・・」


日焼けした真っ黒の顔からいかに土肥氏が海と一緒に過ごして来たかがわかる。
ご存知の通り土肥氏はあのKAZI社の相談役である。
大学を卒業してからも、KAZI社の経営という立場でヨットに携わってきた。
その事務所の応接室に通されると、まずたくさんのヨットの写真、記念品に驚かされた。
席に座るとにっこり笑って、開口一番

「ヨット部OB列伝なんていう表題で取材されるような、今まで登場された先輩達のように立派な戦績や業績は僕にはありません。
まあ、学生時代全日本にも出してもらったし、人並みのことはやってきたけどね。そんな、立派なものではない。
どっちかって言うと平凡な学生だったんだよ(笑)。」

と、学生相手の取材なのに照れたように言われた。

「僕の父が、ここにあるけど、『舵』って雑誌の創始者で、子供の時から品川の海でね、漁船を改造した1枚帆のヨットに乗せて貰ってた。
ヨットとも言えないなあれは(笑)帆掛舟だな。
親父に乗せられて、よく乗ってたんで、そういうことは記憶にあるんだけど、まあとにかくヨットは好きだったね。」

土肥氏は子供の頃からヨットに触れてはいたが、競技を始めたのは大学からだ。だから大学でヨット部に入った時はほとんど何も知らない状況だったという。


「僕は大学を5年間掛けて卒業し、5年間ヨット部にいた少し変わった部員だった
入部して好きなヨットに乗れるようになって、キャンバスには殆ど足を向けず、横浜にあった合宿所に暇さえあれば出かけて、練習したり、社会人の先輩の船の整備を手伝ってた。
で、12月のシーズンオフ迎えるころには体育実技以外は単位はゼロ。
とてもじゃないけど4年で卒業するなんて無理だと思って、それならば一層の事あと4年ヨット部に居てやれと云う気になったんだ。

それで僕が入った当時は武村さんがキャプテンだったんだけど武さんとこへ行って、
『こういうわけなんで俺5年間ヨットやりたんだけどどうですかね。』
『それはいいけど学連のレースは4年間しか出られないぞ。学連のレースに出たければ一年目は部に居なかった事にしろ、その代わり又一期のやり直しだぞ』って話になった。」

「でも『名前もたいして出ていないし新人戦の時のクルーに出てるくらいだからどってことないないだろう。いいですよ。』ってことでOKしちゃったんだよ。自分で決めちゃった(笑)
ところがねそれは大変なことだってあとから思い知らされた。」

当時のヨット部の上下関係は年季制だった。つまり年齢や学年より、ヨットをやっている年数で上下関係を区別するというものだが、一年多くヨット部にいることとなる土肥氏は年季はちゃんと積んでいるのに、一期をやり直しにしたことで、事実上初心者扱いになり、それまで一年間同期としてやってた人を「さん」付けで呼ばなくてはならなくなる。

「同期は6人いたんだけど、そいつら二期になるんだけどおれだけ一期やりなおしなんだよ。そうすると『さん』付けで呼ばないと怒られちゃうんだ。武さんは逆の意味で困ったって書いてあるけどね。ま、同期の連中から土肥、土肥と呼ばれるのは大したことなかったんだけど、今までの同期を『さん』付けで呼ぶのはすごく抵抗を感じたね。」

「もう嫌でね、名前を呼ばなかった。用がある時は、『おい』とかなんとか言って誰かを呼んでいたのを覚えているよ(笑)」

「自分独りで舟を扱えるようになっているのに全く何も知らない新人部員として扱われる
他人には云えない屈辱感を味わい、いっそのこと辞めようかとも悩んだ。でもね、でもやっぱり自分がヨット好きでしょ。
今だったらセーリングクラブとかいっぱいあるし、同好会もあるけど、僕等の時は無かったからね。


<左より二人目土肥氏 小嶋・石田君と>
「だからヨットに乗るには、そういうことをずっと、耐えていかなければならないわけよ。
ある意味じゃ自分では理不尽だと思ってたんだけど、随分そういう、
『一見世の中不合理に思える、不条理に見えることに耐える。』
っていうことには訓練されたな。それは良かったと思うんだよ。
世の中、理不尽と思えることでも、自分の将来のためには、耐えざるを得ないし、
それに耐えて乗り越えた時にまた、新しい未来が拓けてくる
・・・あの貴重な体験が、現在の僕を育ててくれた。」

「社会に出たら、事によっては理屈で解決できない状態に耐える力も必要だ。
その境遇に耐える力を養ってくれるのは、現代では体育会運動部だけではないかな。
ヨットに乗りたい一心だよ。好きなことだから、やっぱり耐えられたんだろうね。」

確かに「ヨット部を5年かけて卒業する」というのはあまり聞かない話ではある。
大学で一年留年することはあってもその一年を部活に費やすというのはやはり競技を、部活を愛していなければ出来ないことだと思う。
とりわけ、 『早風』 という大型ヨットに触れられる魅力は、どんな辛さにも換えがたい魅力だった。

あの当時は早稲田にはいろんな船があった。
一番大きいのが「早風」、33フィート。
それに「紺碧」っていうスター級のヨット。あれは僕等が二期か、三期のときに新艇として下ろしたんだ。
それからエルクラスという、あれは・・・24フィートくらいかな。
なにしろ大型艇がいっぱいあったんだ。
実に幸せな時代だったね・・・」


「勿論A級ディンギー、スナイプで通常はレースの練習をする。でも、機会さえあればこれらの大型艇に乗ることが出来た。

大型艇を前後にして夏の館山廻航に15,6艇で浦賀水道を行くときはそれこそ誇らしさと早稲田のヨット部に居られる喜びに何物をも換えられぬ思いがしたものだよ。

現在のヨット部には稲魂があるものの、大型艇はないに等しい。
そのことは土肥氏も残念に思っているという。

「今の学生にもう少し身近に (大型艇に触れる) 経験ができるようなね、環境があったらもっとすばらしいものがあるんじゃないかということはいつも思ってる。」

土肥氏も、これまでのOB列伝に登場して下さったOBの方々と同じく、学生時代を終えてからもヨットに携わってこられた。
「ヨットを大学の4年間の間だけで終わらせてしまうのは非常にもったいない。」
OBの皆様が口を揃えて話されることだ。土肥氏もまたその一人である。
「ヨットってのは皆も言ってるように長く競技できるスポーツだからね、そういう意味で今君たちがやっている470とかスナイプって船は、ま、言うなりゃ、入り口にあるクラスだよな。それから、僕らのやったような大型艇のクラスがあったり、いろんなクラスがある。その中で、
大学の時に大型艇に触れて一番良かったのはシーマンシップの話だ。」

武村さん も言ってたけどシーマンシップてのは海の中、海の上で生き残る術だよな。
精神的なもんじゃないよ。僕らが言ってるシーマンシップてのは。

スポーツマンシップなんかと混同することが多いけどそうじゃないんだ。
シーマンシップってのはどんな時化た海にいっても、ちゃんと船と人間がきちんと港に帰ってくるそういう技術だよ。
そういう技術を、身につけなきゃいけないわけだけど、そのためには、
やっぱり僕は一番、大型艇ていうものが役に立ってるね。」

「例を挙げれば大型艇乗ってると、僕らの時は、今の様なナイロンのロープなんかないんだよ。
みんなマニラロープ、太くて重くて何10メートルある。
アンカーもこんなに大きくて重くて。そういうものをいつでも使えるようにメンテしておくことだとか、
それからスプライスっていってロープをつなぐ技術だとか、それからワイヤースプライスもあったしね、そういう技術ってのはね結構先輩から教わったよね。
だいたいそうだなあ・・・人にもよるんだけど3年生くらいになると、どこいってもいっぱしの造船所の小僧ぐらい務まるくらいの技術を持ってたね。


土肥氏は2年生の時に「ストーキー係」を任されていた。
ストーキーとはstore keeper、もしくはstock&keepの略であるらしい。
このストーキー係は今のヨット部にも存在する。
主に部品やいろいろな道具をしまっている倉庫を統括する係だ。
ストーキーの中でも、一番大きな仕事は『早風係り』(ディンギーには乗らず『早風』専門に見る係り)の先輩の下で『早風』の整備をする事だった。
これが本当に面白かった。

「はずした部品をちゃんと管理するにも、今はステンレスだから錆びないで良いだろうけど、僕らの時は鉄のワイヤーだったからね、廃油もらってきて、全部廃油に浸けるんだよ。それで一冬置いておくんだ。シャックル類なんかも鉄だから、全部錆びるから油の中に入れておく。」


「それから春になれば、これは小型艇でも大型艇でもそうだけれど、ぜんぶ自分たちで船をコーキングする。
君たちは今は繊維を樹脂やなんかと一緒に詰めたりしてるだろ?
僕たちの時はマキハダって言ってね、木の皮かなんかをロープ状にしたのがあるんだよ。
それを、コンコンコンコン入れて、隙間をうめて、
その上をパテで塗ってそれでまたペンキで仕上げるんだ。」


「そういうような作業を嫌でも教えられるわけだよね、先輩から。
そういうことは、学校卒業してから、ヨットをやってく上においてものすごく役に立った。
なかなか誰も教えてくれないことだからね。

ある人なんかはね、造船所行って大工の手下になってそういうことを趣味でやった人もいたよ。
武村さんなんかその口じゃなかったかな。
そういうの好きだったからなあ。
3年生くらいになるとかなりのことは出来たね。」

<東京湾交通ルールリーフレット:東京湾海難防止協会発行>


土肥氏のヨット部時代には、まだまだ思い出がある。
その一つが夏の館山への廻航である。
これは何度かOB列伝でも話が出たが、詳しい内容はあまり話されて来なかった。

「僕らの時の館山への廻航は、『早風』を先頭にして大型艇3ぐらいだったかな・・・、A級ディンギーとスナイプも合わせて12・13杯はあったのかな。それを間に入れて、スター級とエルクラスで、15〜16艇くらいの船団になる。」

「横浜のヨットハーバーを出るのが夜中の1時ごろ。」
「1番危険な、船舶の出入りの多い浦賀水道を、比較的安全な明け方に突っ切るんだよ。

館山に少なくともお昼過ぎくらいにつかなきゃいけないからね、それで、そんな時間に出て行く。
『早風』を先頭にして、ずーっと行って大体、横須賀の沖ぐらいで夜が明ける。
館山に着いたら、向こうで体育のヨット実技と新人合宿がある。」

15・6艇もの船団が白い帆を張って、夜明けの海を渡っていくのはさぞや壮観な眺めだったろう。

それから『早風』の上架というイベントもあったという。

「11月の終わりになると、東京の東雲に今でもあるかな。東京造船ってのがあったんだけど、そこへ『早風』を持ってって揚げるんだよ。陸に上げてきれいにするわけだ。
僕らの時には殆どは東京造船で揚げたんだけど、そのために東京まで廻航するわけだ。

横浜や東京に行くってのは大変だったんだよね、風だけで行くのは。

面白かったのは、その時に勝鬨橋の下でアンカーを船の前後に打つ。
流れが結構あるから船が動かないようにね。
橋の上には、もう、陸組が待機してる。
それで陸組の学生がね、ロープを橋の上から垂らすんだよ。
それでマストに登って、マストにそのロープを縛ってさ、上から引っ張ってもらって、マストを抜くんだ。

マストを倒したら、曳き舟に来てもらって、隅田川上がっていった所の東京造船まで引っ張っていってもらう。

その時ね、銀座が近いから、『物珍しいことやってるじゃないか。』って、いっぱい人だかりが出来るんだよ。
なんか誇らしい気持ちだったねえ(笑)。いっぱい人が来てね。
そういうことなんかも面白かったなあ。」

「こんなことを先輩達に怒鳴られながら毎日のように繰り返していたわけだから、
三期になったときには 台風の時に隣接するYYC
(横浜ヨットクラブ) から応援を頼まれた時など、いっぱしの職人位の技量は多くの先輩達も持っていたね。

「ストーキーやっていた時の、大型艇・小型艇の整備の技術は、すごく教わったよ。スプライスとか今でもできるよ。ヨットをやる上で一生役に立ってるね。」/font>


<勝鬨橋を前に『早風』のマスト抜きに登る米田晴二氏 S28年>
写真:「五十年の航跡」p.146(早稲田ヨットクラブ:1984)
大型艇から学ぶ事。整備の技術、様々な経験、判断力・・・
それらのシーマンシップとも言える精神が、多かれ少なかれ『早風』の事故で急激に早稲田のヨット部から失われてしまった。
これまでの『OB列伝』に登場して下さったOBの方々が口を揃えて言われることだ。
土肥氏もまた、その一人だった。


「でも今度監督が代わって畠山君になってから、みんなを連れて大型艇でどっかへ行ってみようか、そういうことはね、僕はすごく良いと思う。懐かしいね。
彼は海を知ってる男だから。
なんというかな、少しずつでいい、今の学生は忙しいだろうからね。 だけどそういうものを取り入れていく、っていう方法が僕は非常にいい方法だと思うし、大賛成だね。

何回も言うけどヨットてのはスナイプと470だけじゃない。

まあ、今でも早風のキャビンの中のペンキとマニラロープの混じった臭いっていうの、もし今目の前にそれが出て来ても僕はすぐわかるよ。
そういうのってのは懐かしい臭いなんだね。(笑)」

『早風』の臭い・・・

「理不尽だと思うことにも耐えた。その貴重な経験が今の僕を作ってくれた」
「『早風』を先頭にして館山廻航に15,6艇で浦賀水道を行くときはそれこそ誇らしさと早稲田のヨット部に居られる喜びに何物をも換えられぬ思いがした」
辛い時は心の支えとして
今は誇りとして
卒業後、『DABOHAZE』で渡られた数々の外洋レースや、クルーズの原点として・・・
きっと、その臭いは、あらゆるものを象徴しているのだ


体育会・ヨット部は優れた社会人を育てる、と、どのOBも言われる。
しかし土肥氏はその体育会という環境だからこそ起こる一つの危険性も話してくださった。

「一番必要なのは瞬間的に風が振れたりして、瞬間的にタックしなきゃならないとか、
その時の自然の状況の変化に対していかに緻密に迅速に反応できるか、行動できるか
即断力、と、いうことが非常に大きなポイントになると思う。

そういう力をつけてくれるとういうのはヨットだと思うし、非常にいいと思う。
でもそれがね我々の仲間でも間違っちゃう人がいるんだけども、
独善ていうかな、それに陥りやすいこともあるんだよ。


<会長を務められた東京ヨットクラブでも愛艇を駆って活躍>
例えば練習でもいいよ、クルーとペアを組んでるだろ。そうすると、そりゃいろんな情報はクルーから聞くよな。
どちらへ向かう方がブロー入っているかとか、左の海面は駄目か、リフトかヘッダーか、だとか色々あると思うんだよ。

それを『よし、じゃここですぐそっちの方へタックしようとか、ここは少し落としてでも先出ちゃえ』とか、瞬間に判断して実行に移すのはスキッパー。
つまり一人だけなんだよ。

まあ、瞬時の判断と実行する力ってのかな、そういうのは、セーリングですごく養われるんだ。
これはすごく実社会に出て役に立つと思う。

ただその反面、人の言うことを聞かないとかそういう弊害もあったよ。
大学ヨット部の卒業生の中にはそういうOBもいるんじゃないかな。
解釈を間違っちゃうと困るんだけどね。
でもいずれにしろその『誰にも頼らず、瞬時に判断をくだして実行する力』っていうのは、ヨットで確実に養成されると思う。」

その結果は良くも悪くも総て自分に返って来る
実社会に出てこの能力が如何に多くの場面で必要とされるか

弊害である独善に落ち入らずこの能力を充分発揮出来た時は本当に素晴らしい結果を得ることが出来るよ。

「そのなんていうか・・無目的に、ただ精神力だとかね、そういうのは駄目だよね。
早稲田だから頑張れとか、そんなのはみんな頑張ってやってることなんだから。当たり前のことなんだよね。
慶応だって頑張ってるだろうし、同志社だって頑張ってるだろうし、それぞれの学校代表して運動部でやっているヤツはみんな当たり前のことなんだよ。」


「そう言うことではなくて、科学的に、合理的にスポーツをするということ、これは絶対大事だと思う。」

土肥氏はかつてシンガポールのナショナル・セーリング・センターを訪れた時に見たセーリング先進国のコーチングが非常に印象的だったという。
東欧のコーチから、ニュージーランドのコーチまでたくさんのコーチが来てジュニアの指導に当たっていたが、
その合理的な練習からは『セーリング強豪国の強さの所以』とも言えるオーラが滲み出ていたという。


「スタート練習でも上のマークは打ってあるんだけど、スタートすると3〜4回タック繰り返す頃には、後ろの選手と前の選手の差がすぐついてしまう。
で、見てると前に出るヤツはいつも同じなんだよね。
そうすると、コーチはそこで『ピピーッ』と笛で戻しちゃう。
それでまた始めからやらせるんだよ。

いつも育てているって、そんな感じだよ。
そんなようなことやってたね。みんな経験に裏打ちされていることなんだろうね

科学的にすべての事考えてやってる。

まあ、最近畠山君が始めたからね。そういう点が昔と違ってきた。だから強くなったという気がするよ。彼のやり方は科学的だからね。
そういう意味じゃ畠山君が監督になってよかったなと思う。
課題を決めて毎日毎日、科学的に練習するということこれが一番必要だろうね。

今が一番強いんじゃないか。慢心してもらっちゃ困るけど。
強いと思うよ。今の早稲田は。」

問題は発生した時に反復練習によって潰す。
「必要な練習を、必要な時に、必要なだけ行う」
その考え方はTOYOTAの「Just in time」の生産方式に似通ったものがあるが、それに近いものを土肥氏は海外で感じられた。
そして徐々にセーリングを科学的に、合理的に考えるというスタンスを取り始めた早稲田に大いに期待していると話して下さった。


<2003年 OB会長時代 三戸浜を視察>


「もうひとつ、卒業してもヨットをやめないことだね。
同じ釜の飯を食った仲間では当然友情が生まれる。お互い一生離れられない絆でむすばれるのは当たり前な事だ。
それはかけがえのない財産なんだよ。

先輩のヨット『月光』で、並木会長に連れられて早稲田OBのみでチャイナシーレースは僕には初めて参加した海外レースだった。
それから、慶応のOB達と競った1995年のサンフランシスコのJ24シニアーワールドレース
後輩達と一緒に組んで打ち込んだ外洋レースなどなど、先輩や友人達に囲まれて卒業後もヨットを絆にたくさんの経験を積むことが出来た。

僕の場合にはそれが早稲田のヨット部だけに留まらず、慶応のヨット部にも広く友人を得ることが出来て、今日でも一緒にヨットに乗ったり酒を飲んだり出来る友達がたくさんいる。


ヨットは卒業後も永い間楽しめる生涯スポーツだ。
昨年夏、沖縄の座間味島へクルージングした時に 昭和18年卒業の大井先輩に偶然お会いした。
先輩は多分80歳もとうに過ぎたお年だろうと思われるのに お元気にサバニレースに参加したり、J24に現役で乗られてセーリングを楽しんでおられた。

君達はこれから60年以上に亘り楽しめるスポーツに巡り合ったんだ。」


最後に土肥氏がわざわざ作って下さった「現役へのメッセージ」を載せたい。



現役諸君へ
セーリングと云うスポーツは生涯に亘り楽しめるスポーツです。
大学のヨット部はそのほんの始まりに過ぎません。学生時代は基本をみっちり身に付けて下さい。
具体性の無いただ頑張れ式の間違った精神論ではだめです。
目標を定めて 合理的、科学的 な取り観みが最大の効果をもたらします。
其の上に早稲田の学生としての品位を大切にしてください。

レースで活躍ができた人、そうでなかった人、悔しい思いをした人、嬉しさを味わった人
部員一人一人がそれぞれの思いを胸に4年間過ごしたヨット部を巣立っていくわけですが
この4年間は君達一人ひとりのこれからの人生の中で必ず何物にも代え難い貴重な経験として刻み込まれて居る筈です。

最後にもう一つ卒業後も海から離れてはだめです。
卒業して実社会へ出れば中々セーリングに出かける機会は作りずらいでしょう。
でも君達には母校の後輩達とヨットがいつも待っているのです。

是非いつまでも、いつまでもセーリングをエンジョイして下さい。

頑張れワセダヨット部現役諸君!



文責:2年HP係 鈴木恵詞




© 2006 Waseda Yacht Team All rights reserved