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■土肥 丈志■
東京都 芝学園高校卒業 舵社 相談役 2001年〜 東京ヨットクラブ 相談役 2002-2004年 OB会 早稲田ヨットクラブ 会長 |
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「二期に成るはずが、新しく入部してきた新人と同じ扱いで、また下積みからやり直す。 すでに独りで船を扱えるようになっているのにね。 他人には云えない屈辱感を味わい、いっそのこと辞めようかとも悩んだ。 だが、『早風』という大型ヨットに触れられる魅力は、どんな辛さにも換えがたい魅力だった。 早風のキャビンの、ペンキとマニラロープの入り交ざった臭いを、僕は今でもありありと思いだせる・・・」
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日焼けした真っ黒の顔からいかに土肥氏が海と一緒に過ごして来たかがわかる。 ご存知の通り土肥氏はあのKAZI社の相談役である。 大学を卒業してからも、KAZI社の経営という立場でヨットに携わってきた。 その事務所の応接室に通されると、まずたくさんのヨットの写真、記念品に驚かされた。 席に座るとにっこり笑って、開口一番
「ヨット部OB列伝なんていう表題で取材されるような、今まで登場された先輩達のように立派な戦績や業績は僕にはありません。
「僕の父が、ここにあるけど、『舵』って雑誌の創始者で、子供の時から品川の海でね、漁船を改造した1枚帆のヨットに乗せて貰ってた。 土肥氏は子供の頃からヨットに触れてはいたが、競技を始めたのは大学からだ。だから大学でヨット部に入った時はほとんど何も知らない状況だったという。 |
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「もう嫌でね、名前を呼ばなかった。用がある時は、『おい』とかなんとか言って誰かを呼んでいたのを覚えているよ(笑)」
「自分独りで舟を扱えるようになっているのに全く何も知らない新人部員として扱われる |
![]() <左より二人目土肥氏 小嶋・石田君と> |
「だからヨットに乗るには、そういうことをずっと、耐えていかなければならないわけよ。 ある意味じゃ自分では理不尽だと思ってたんだけど、随分そういう、 『一見世の中不合理に思える、不条理に見えることに耐える。』 っていうことには訓練されたな。それは良かったと思うんだよ。 世の中、理不尽と思えることでも、自分の将来のためには、耐えざるを得ないし、 それに耐えて乗り越えた時にまた、新しい未来が拓けてくる・・・あの貴重な体験が、現在の僕を育ててくれた。」
「社会に出たら、事によっては理屈で解決できない状態に耐える力も必要だ。 |
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確かに「ヨット部を5年かけて卒業する」というのはあまり聞かない話ではある。 大学で一年留年することはあってもその一年を部活に費やすというのはやはり競技を、部活を愛していなければ出来ないことだと思う。 |
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「とりわけ、
『早風』
という大型ヨットに触れられる魅力は、どんな辛さにも換えがたい魅力だった。
あの当時は早稲田にはいろんな船があった。 |
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「武村さん
も言ってたけどシーマンシップてのは海の中、海の上で生き残る術だよな。 精神的なもんじゃないよ。僕らが言ってるシーマンシップてのは。 スポーツマンシップなんかと混同することが多いけどそうじゃないんだ。 シーマンシップってのはどんな時化た海にいっても、ちゃんと船と人間がきちんと港に帰ってくるそういう技術だよ。 そういう技術を、身につけなきゃいけないわけだけど、そのためには、 やっぱり僕は一番、大型艇ていうものが役に立ってるね。」
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「それから春になれば、これは小型艇でも大型艇でもそうだけれど、ぜんぶ自分たちで船をコーキングする。 君たちは今は繊維を樹脂やなんかと一緒に詰めたりしてるだろ? 僕たちの時はマキハダって言ってね、木の皮かなんかをロープ状にしたのがあるんだよ。 それを、コンコンコンコン入れて、隙間をうめて、その上をパテで塗ってそれでまたペンキで仕上げるんだ。」 |
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![]() <東京湾交通ルールリーフレット:東京湾海難防止協会発行> |
土肥氏のヨット部時代には、まだまだ思い出がある。 その一つが夏の館山への廻航である。 これは何度かOB列伝でも話が出たが、詳しい内容はあまり話されて来なかった。
「僕らの時の館山への廻航は、『早風』を先頭にして大型艇3ぐらいだったかな・・・、A級ディンギーとスナイプも合わせて12・13杯はあったのかな。それを間に入れて、スター級とエルクラスで、15〜16艇くらいの船団になる。」
「横浜のヨットハーバーを出るのが夜中の1時ごろ。」
館山に少なくともお昼過ぎくらいにつかなきゃいけないからね、それで、そんな時間に出て行く。
15・6艇もの船団が白い帆を張って、夜明けの海を渡っていくのはさぞや壮観な眺めだったろう。 それから『早風』の上架というイベントもあったという。
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大型艇から学ぶ事。整備の技術、様々な経験、判断力・・・ それらのシーマンシップとも言える精神が、多かれ少なかれ『早風』の事故で急激に早稲田のヨット部から失われてしまった。 これまでの『OB列伝』に登場して下さったOBの方々が口を揃えて言われることだ。 土肥氏もまた、その一人だった。
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「でも今度監督が代わって畠山君になってから、みんなを連れて大型艇でどっかへ行ってみようか、そういうことはね、僕はすごく良いと思う。懐かしいね。 彼は海を知ってる男だから。 なんというかな、少しずつでいい、今の学生は忙しいだろうからね。 だけどそういうものを取り入れていく、っていう方法が僕は非常にいい方法だと思うし、大賛成だね。 何回も言うけどヨットてのはスナイプと470だけじゃない。
まあ、今でも早風のキャビンの中のペンキとマニラロープの混じった臭いっていうの、もし今目の前にそれが出て来ても僕はすぐわかるよ。
『早風』の臭い・・・
「理不尽だと思うことにも耐えた。その貴重な経験が今の僕を作ってくれた」 |
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<会長を務められた東京ヨットクラブでも愛艇を駆って活躍>
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例えば練習でもいいよ、クルーとペアを組んでるだろ。そうすると、そりゃいろんな情報はクルーから聞くよな。 どちらへ向かう方がブロー入っているかとか、左の海面は駄目か、リフトかヘッダーか、だとか色々あると思うんだよ。
それを『よし、じゃここですぐそっちの方へタックしようとか、ここは少し落としてでも先出ちゃえ』とか、瞬間に判断して実行に移すのはスキッパー。
まあ、瞬時の判断と実行する力ってのかな、そういうのは、セーリングですごく養われるんだ。
ただその反面、人の言うことを聞かないとかそういう弊害もあったよ。
その結果は良くも悪くも総て自分に返って来る 弊害である独善に落ち入らずこの能力を充分発揮出来た時は本当に素晴らしい結果を得ることが出来るよ。
「そのなんていうか・・無目的に、ただ精神力だとかね、そういうのは駄目だよね。 |
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「そう言うことではなくて、科学的に、合理的にスポーツをするということ、これは絶対大事だと思う。」
土肥氏はかつてシンガポールのナショナル・セーリング・センターを訪れた時に見たセーリング先進国のコーチングが非常に印象的だったという。
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「スタート練習でも上のマークは打ってあるんだけど、スタートすると3〜4回タック繰り返す頃には、後ろの選手と前の選手の差がすぐついてしまう。 で、見てると前に出るヤツはいつも同じなんだよね。 そうすると、コーチはそこで『ピピーッ』と笛で戻しちゃう。 それでまた始めからやらせるんだよ。
いつも育てているって、そんな感じだよ。 科学的にすべての事考えてやってる。
まあ、最近畠山君が始めたからね。そういう点が昔と違ってきた。だから強くなったという気がするよ。彼のやり方は科学的だからね。
今が一番強いんじゃないか。慢心してもらっちゃ困るけど。
問題は発生した時に反復練習によって潰す。 |
![]() <2003年 OB会長時代 三戸浜を視察> |
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「もうひとつ、卒業してもヨットをやめないことだね。 同じ釜の飯を食った仲間では当然友情が生まれる。お互い一生離れられない絆でむすばれるのは当たり前な事だ。 それはかけがえのない財産なんだよ。
先輩のヨット『月光』で、並木会長に連れられて早稲田OBのみでチャイナシーレースは僕には初めて参加した海外レースだった。 僕の場合にはそれが早稲田のヨット部だけに留まらず、慶応のヨット部にも広く友人を得ることが出来て、今日でも一緒にヨットに乗ったり酒を飲んだり出来る友達がたくさんいる。 |
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ヨットは卒業後も永い間楽しめる生涯スポーツだ。 昨年夏、沖縄の座間味島へクルージングした時に 昭和18年卒業の大井先輩に偶然お会いした。 先輩は多分80歳もとうに過ぎたお年だろうと思われるのに お元気にサバニレースに参加したり、J24に現役で乗られてセーリングを楽しんでおられた。 君達はこれから60年以上に亘り楽しめるスポーツに巡り合ったんだ。」
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| 文責:2年HP係 鈴木恵詞 |
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