早稲田大学ヨット部


■舟岡 正■
東京都 都立江北高校卒業 水泳部出身
1956年 早稲田大学第一法学部卒業
    巴工業ヨット部でA級ディンギーの選手になる
1962年 ノルウェー・ハンコ ドラゴン級ゴールドカップ出場
 同年 デンマーク・ヨーロッパ選手権出場
1963年 デンマークドラゴン級選手権出場
 同年 スウェーデン・マルストランド ドラゴン級ゴールドカップ 23位/77艇
1964年 東京五輪 ドラゴン級代表
その他 クルーザーレース多数で活躍
2001年 巴工業 社長を引退、相談役に就任

「私が最も誇りを持っていたのは、台風が来ると、早稲田は声をかけなくても、どこよりも早くみんな横浜のハーバーに集まる。
そしてトラブルがないように自分たちの船を片付ける
その後、YYC(横浜ヨットクラブ)にLクラスの船が30杯くらいあったのだが、それをYYCの従業員だけでおかへ揚げるのは大変だ。
そこで、早稲田の連中が力にまかせてどんどん手伝って揚げてしまう。

早稲田はシーマンとしてのやるべきことをやるというのがしっかりしてたと思うね。」


「実はね、この間8月の末に東京オリンピックに出た連中と友達も含めて7人でコペンハーゲンへ行ったんだよ。
向こうのヨットクラブに寄ってさ、話をした時 KDY(デンマーク王立ヨットクラブ) のプレジデントが旗をくれたんだよ。僕もJSAFの旗を一枚あげて」

そう言って戸棚の上から JSAFの青い旗と KDY(デンマーク王立ヨットクラブ)の旗を二枚見せてくれた。しかし驚いたのはこの後の話だ
「それでその時、我々が行くというのでわざわざデンマークの東京オリンピックに出た友達の選手が、『せっかく来るんだからお前たちのためにレースを用意するからやらないか』って言うんだよ。『ドラゴンじゃないけど、ドラゴンとほとんど同じ大きさの船だから』って。
そりゃ面白いっていうんでレースをやったんだよ。
ひどい雨で2レースしかできなかったけど、結局僕が優勝してシャンペンを貰った。」

舟岡氏にはヨットを通じて知り合った友達が世界中あちこちにいる。
「これもその友情の証みたいなものだね」
と言って封の開いていないシャンペンを大切そうに眺める。
もったいなくてとても一人では飲めないそうだ。

「私はヨットマンとして活躍した時代は短いけど、一生ヨットから離れられないし、離れる気もない。
だから、リタイヤしたら、ヨットハーバーの近くに住もうと思って、それでここへ土地を買って家を建てたわけだから。」


湘南国際村。平成6年に三浦半島中央部の丘陵地帯に開村した神奈川県の国際交流の拠点というべき場所だ。
相模湾や大島、富士山も一望出来るこの場所は住宅地だけでなく大学院大学や、企業のセミナーハウスも数多く存在する。ここに舟岡氏は現在一人で暮らしている。その家のリビングに向かい合って座るとゆっくりと話はじめる。
舟岡氏が最初に行った海外レースの話だ。

「1962年、大学を卒業して巴工業に入ってしばらくたった27、8歳の頃だよ。ノルウェー・ハンコのゴールドカップレースと、デンマーク・コペンハーゲンのヨーロッパ選手権へ行った。それが最初のドラゴンの国際試合だった。

その翌年1963年もスウェーデンのマルストランドでドラゴンの ゴールドカップ (今の世界選手権) があって日本ヨット協会の代表としてまた行った。
参加艇数過去最高の77杯。
ドラゴンが77杯一斉にスタートする大変壮観なビックレース。
結果は総合23位だった。」

ちなみにドラゴン級は1936年にイギリスのクライドでレースがあり、クライド・ヨットクラブ評議会がDragon Gold Cupを作った。現在に至るまで世界選手権優勝の証はゴールドカップである。

「ドラゴンには巴工業に入社なさってから、何年目くらいに乗り始められたのですか?」
「3年くらいたってからだと思うよ。ドラゴン級の日本最初の艇は、西ドイツのラスムッセン造船所から輸入したミスニッポンW世だ。
巴工業の山口四郎社長がオーナーだった。
その後、東京の片貝造船所で5〜6隻を建造し、延べ、9隻のドラゴン級を巴工業が所有。
その他を入れると、約15隻のドラゴンで、日本ドラゴン協会を運営していた。」


そうして1964年に舟岡氏が代表として出場した東京五輪があった。

<日本初のドラゴン ミスニッポンW世>

「あの時は24杯中で17位。まことに残念だった。
地元でありながらね。江ノ島で行われた。
出来る事ならもう一回レースをやりたいね。
成績表もまだ持ってるよ。17、17、14、16、16、10位だった。
だんだん後半になるにつれてオリンピックにも慣れてきていた。
途中でトップ走ってる時もあったんだ。」

オリンピックで全7レース。今から考えれば少ない気もする。
「フィニッシュするときも雪崩のごとくだ。
みんなスピードに差がないからね、塊になってフィニッシュする。
ゴールドカップなんかより、オリンピックに出てくる連中は素晴らしい連中が揃っている。
ものすごいデッドヒートだった。」
東京五輪の後、舟岡氏は第一線を退く。オリンピックを狙うメンバーから自ら外れたのだ。
退くには少し早いと感じるが、実は舟岡氏には東京五輪の時から思うところがあったのだ。
「私は東京五輪に幸か不幸か選ばれたが、選ばれなかった中にも腕のいい選手はいくらもいた。
東京五輪の後、最初から3人に絞って今度はメダルを狙えるようにしてあげようと思っていた。
メキシコオリンピックの前の前の年くらいにドラゴン級ゴールドカップが世界選手権って名前になって、それに巴から参加した。その後でドラゴンはオリンピックに採用されないことになった。代わりにソリングになって結局巴からは誰も行かなかった。」
オリンピックとしては日本のドラゴンはローマ五輪と東京五輪だけだった。
「私はヨットをやるために巴に入った人間だが、最後は社長をやってた。
同期の日色
(東京五輪のドラゴンのクルー) は最後の二年間は専務。
早稲田ヨットのOBが社長と専務。そういう時代があった。
「東京五輪の後はもうドラゴンには乗られなかったのですか?」
「私は東京五輪の後、二年くらいはドラゴンでレースに参加していた。
でもドラゴンは五輪からなくなったし、巴としてはドラゴンを処分しなきゃいけなかった。
<ゴールドカップで計測中の舟岡氏>
その頃9杯あったのを全部売ってしまった。
私はヨット部には所属していたが、ドラゴンが終わってからは四大学のOB戦に出るくらいで、レースには出なかった。選手としてはそこですっと切れている。」


舟岡氏は大学からヨットを始めた。
ヨット部に入られたのは18歳だったそうなので選手として活躍したのは本当に10数年しかないことになる。

「だけどヨットからは離れないし、みんなの世話を焼くとかそういうことはずいぶんやった。」

「そのうち巴工業がジプシーというフランスの船を輸入するようになった。OBの松本さんがリーダーでやったんだが、景気のいいとき、バブルの時代には年16杯とか20杯近く売れた。
ジプシーを巴に一艇、新規導入したとき、今江ノ島にある稲魂
(早稲田ヨット部のOB会が所有する艇) も輸入した。巴はジプシーを入れるために、ヤマハ製の古いミス日本六世を処分しなきゃいけないんで、それを僕が買った。
その船を房総の布良に置いて 週末は船に泊まるという生活を数年したね。
だからレースをやった期間は短いけれど、ずっとヨットとは切れていない。」

今の現役部員も馴染み深い「稲魂」はジプシーという艇種だという。

「稲魂と同じサイズのものは今、巴工業のミス日本Z世として鐙摺港にある。
学生のレースの本部船としてたまに利用されるよ。」

話は、舟岡氏の高校・大学時代の頃へと移る。

「私は一年浪人してるんだ。早稲田に入りたかった。
高校までは水泳部だった。しかもその高校にはプールがない。プールのない水泳部だ。
当時は古橋さんが活躍してた頃だ。プールがないから東大の室内プールとか、あちこち借りて練習する。自由形で競争には出ていた。まあ結果はろくでもなかった。」

「浪人中は当然勉強もしたけど、飽きるし、もともと勉強好きじゃなかったし、予備校へ行くのも最初の三ヶ月くらいでばかばかしくて行かなくなっちゃった。代わりに上野図書館へ行って一生懸命暗記していた。」

「北千住の今の千住新橋。荒川放水路。あそこにボート屋があった。そこでローイングボートを漕いでいたんだ。子供のころから本当に船が好きなんだよ。小学校四年生くらいからボート屋行って一人で漕いでるような子供だったから。」


ボートが好きだった舟岡氏がヨットに乗るきっかけとなったのは、「力を出してやるより、もっと楽しいヨットがあるじゃないか」という友人の言葉だったという。
「同じ場所に貸しヨットも三杯くらいあったけど、『俺あれはわからないからオマエわかるんなら教えてくれよ』と言って教わって。すぐ好きになった。
大學へ行ったらヨット部に入ろうと思ったね。水泳は芽が出ないだろうと思ってた。
でもヨットは最初から好きだった。」

<荒川放水路のヨット(S31年ごろ 千住新橋と西新井橋の間)>
写真撮影:吉田千伊知氏( 荒川の昔を伝える会 会員)
舟岡氏が大学ヨット部に入部した当初は50人以上の同期がいたが、卒業する時には5人ほどになってしまっていた。
「ヨット部に入ったって最初は船の上げ下ろしや整備ばかりやらされる。」
当時の人数ではヨット部にいてもヨットに乗れない状態、辞めて行く者が多かったのだ。
「ただ私の場合は船にさわってれば満足だった。上げ下ろしや整備ばかりでもぜんぜん苦にならなかったね。」
舟岡氏が4年生の時、館山で行われた全日本インカレで早稲田は優勝している。
つまり今年優勝していれば、11月1日に日本一を決めた中日ドラゴンズと同じく、53年ぶりの日本一だった。
結果は4位に終わってしまったが、舟岡氏は現地にも応援に来て下さっていた。
「今年優勝できたよな。まともな風が吹いてればね。それはしょうがないけどさ。
僕らも現役の時、非常にプライドの高いチームで、いつだって優勝出来るという気持ちで、
誰にも負けないくらい練習はしたよ。
でも、ヨットレースで勝つことは、そんなに簡単に行かないんだよな。」

<関東個人選手権 Aディンギーに乗る>

「戦後の早稲田の成績はあまりよくない。私が入った当時は慶應の独壇場だった。
でも早稲田は船も多いし、戦前からやってきたトップクラスのチームだっていうプライドもあって、やるべきことはきちんとしてきたんだが、どういうわけかレースに弱い。我々のときも関東のインカレで三位しかとれなかった。」

「それと時を同じくして日大が関東の一部から落ちてしまった。
それで、日大OBに当時の巴工業の副社長がいて、「次の年、一部に復帰するために冬の間ヨットの練習をしようじゃないか」と言い出した。
そのころは11月から3月の初めまでヨットに乗る人なんかいなかったんだけどね。
そういう斬新な思想を持ってる人で、いろんなカッパなんかも用意して、結局日大は巴工業の冬の合宿にも出てる。
それでめきめきと伸びてきて、その結果3月から早稲田と一緒に練習するようになった。
一緒に練習することが功を奏して、彼らは一部に上がって関東で優勝、我々は三位。
その後、我々が全日本で優勝。やはりそれなりの練習をやった甲斐があったと思う。」

当時の全日本インカレは今と違って二日間だった。
早稲田が優勝した館山大会、1日目早稲田はダントツだった。
Aクラスディンギーの最初のレースに3艇出て、1・2・3早稲田だったという。
部員の意気もすっかり上がっていた。

「それでさ、当時のキャプテン、去年死んだ杉山博保が

『明日はもう優勝に決まってるんだ。さて、しかし、俺たちは優勝ってのに慣れてないから、カップの授与や優勝旗の授与に慣れてない。
恥をかいちゃいけないから、これから、その練習をやろうじゃないか』
ってね。

みんな大笑いだけど、彼の腹としてはみんなをあんまり緊張させたくなかった。
その勢いを持続したまま明日も一気に勝ってしまおうってわけだよ。
で、みんなで優勝旗の授与とかカップの授与の練習をして大騒ぎしたことあるよ(笑)」

そして翌日、その通り早稲田は優勝を決める。
もちろんA級ディンギーは大差でクラス別も優勝。
その時のA級のスキッパーは杉山氏、舟岡氏、当時3年生の武村氏だった

「あの頃、早稲田の心意気というかそういうのがとてもさかんだった。」


<早慶新人戦>

「私が最も誇りを持っていたのは、
台風が来ると、早稲田は声をかけなくても、全員が、どこよりも早く、横浜のハーバーに集まる。
そしてトラブルがないように自分たちの船を片付ける

他の学校はモタモタしてて遅い。早稲田はどこよりも早く集まって自分たちの仕事をやってしまう。
その後、YYC
(横浜ヨットクラブ) にLクラスの船が30杯くらいあったのだが、それをYYCの従業員だけでおかへ揚げるのは大変だ。
そこで、早稲田の連中が力にまかせて、どんどん手伝って、揚げてしまう。

YYCに非常に感謝されて、早稲田だけはプールで泳いでいいとか。
我々のためにレースを設けてくれてカレーライスをごちそうしてくれたりした。

早稲田はシーマンとしてのやるべきことをやるというのがしっかりしていたと思うね。


<岩井合宿にて>

「あのころ
(舟岡氏の現役時代) は早風があったことで我々はオーシャンレースにもでることが出来た。

一度、早風がオーシャンレースで遭難しそうになってこわいことがあったなあ。
鐙摺港から出航、下田で泊まって清水へ行くレースだった。台風が上陸してるころにレースをやっていたんだ。
下田の灯台の点滅が嵐で見えない。
これはやばいって稲取に入った。
翌日のことだよ。その台風で洞爺丸が沈没した。」

「学生のレースは今より少なかったね。しかしオーシャンレースに出るチャンスがあった。
いろんな危険な思いもしたけれどヨットマンとしての基本的なものを学ぶチャンスはずいぶんあった。」

「今、並木OB会長以下、あなたたちをクルーザーにも乗せて、ヨットの全体的な知識を身につけさせようという動きがあるが、これは早稲田の伝統なんだよ。
ただ、一時期なくなってしまっていた。早風が事故に遭ってしまったからね。」


「早風のクルーたちはディンギーレースには出ないけれど、いろんなオーシャンレースに出たりしていた。
そういう意味で早稲田は幅の広い、層の深い存在として見られていた。」

「当時の学生ヨット界で一番大きいクルーザーが早風だった。
早風を失くして二年後、遭難した青柳君のお父上が「早風に負けない船を作ってくれ」とおっしゃって資金を出された。
足りない部分を大學も補って稲龍ができた。
早風 稲龍 、稲魂と移り変わって今日に至るが、どれも早稲田の旗艦だ。
いつも早稲田がトップを切っている。そういうプライドがあった。



OBの方々が稲魂に乗って、週末何回も江ノ島から三戸浜(早稲田大学ヨット部が練習している場所)までわざわざいらして下さって練習を激励して下さる。
練習を見に来てくださるOBの方々と、早稲田のエンジ色の旗を掲げている稲魂を見る度に、部員も「誇り」を感じることが出来る。



当時は7月に全日本インカレが終わり、8月に体育実技が終わって、9月頃代替わりだったという。
館山での全日本インカレが終わって舟岡氏は大学でヨットは終わりだと思っていた。だがそんな舟岡氏に転機が訪れる。

「家業を継ぐんだと思ってたら、一年先輩の松本さんから巴工業へスカウトされた。
当時巴工業にはA級ディンギーの選手がいなかった。
巴工業の副社長から舟岡を入れろって声が掛かっていると言われてびっくり。
就職するつもりなんかなかった。けど、とたんに、『あ、またヨットができる』そう思ってOKしちゃったんだよ。
その時はヨットをやらしてくれるなんてこんないい会社はないと思った。まさかそこで社長になるとはおもわなかった。1993年から社長を8年やった。
当時の体育局は運動部の連中の就職が決まると、事務所に札をならべたものだが、その年は私が一番初めだったよ。八月の初めにはもう決まっていた。」



資料:『75年の航跡 早稲田大学ヨット部75周年記念誌』
p26 2006年刊>
そうして舟岡氏は巴工業でドラゴン級に出会い、東京五輪に日本代表として出場することになる。


「私にはプライドがある。
早稲田大学のヨット部にいたこと。
勉強はしなかったが、ヨットとなったらプロ意識を持っていたこと。
当時としては珍しく外国のレースにも出ている。
ヨットをやっていたという誇りはずっと持っている。
それは社長になってから効いてくる。
みんな私がヨットマンだったということも、オリンピック選手だったということも知っているわけだから。」


だから仕事で舟岡氏を接待する場合、取引先はよくヨットの用意をしたらしい。

「取引が成立した後に、向こうのご厚意で、ストックホルムのハーバーでスワン65を借りて、二泊三日、バルト海をクルージングしたこともあるよ(笑)それは一歩間違えば紛糾しかねない難しい会議の後だった。
ヨットというのは非常に深いものがある。海外でビジネスをする時、ヨット自体がひとつの共通語のようにね。
私はもう75だけど、ヨットをやっててよかったと感じる。だからその恩返しもあって、早稲田にはできるだけのお手伝いをしなきゃいけないと思ってる。」


今の現役のことをどのようにみていらっしゃいますか?

インタビューさせて頂いているOBの方皆さんに伺っている質問をしてみた。
たしかに、今年早稲田大学ヨット部員には「自分たちは強い」という自負が少なからずあった。しかし全日本では結果を出せなかった。
部員は部員なりに悔しい思いをしたのだが、そんな現役の姿をOBの方はどういう思いで見て下さっているのかというのを知りたいからだ。

「あのね、勝負っていうのは簡単にいうと運がある。
実力ではおそらく今年日本一だったとレースを見ていて思う。運不運の問題であって、結果3位になろうが4位になろうがそれはしかたない。
それよりも、そこへ行くまでみんなが努力している姿。

真剣にセーリングの技術を高めようとか、シーマンとしてやるべきことを学ぼうということに懸命になっている姿、それを見るとよくやっているなと思う。
かっこつける必要はないんだよ。楽しくやればいいんだよ。だけど、非常に危険なものがその裏にあるということを自覚してね。

たとえばレースではよく走らないけど、しかし台風になったら強いとか 船を大事にするとか
シーマンシップというか、いろんな言い方があるが、そういうものを確立していることが望ましいなと思ってるね。
レースを見ていれば「連中よくやった」と、今回なんて素晴らしくよくやってるというのはわかる。今回なんて結果、運が悪かっただけで、経験は役立ってると思うし、誇りに思ってますよ。今のような形でヨット部が運営されていけばいいんじゃないの。」

続いて、舟岡氏は言葉を選ぶように

「今早稲田のOB会が二つに割れてるでしょ。それは悲しいことであるけれど、やっぱり起こるべくして起きたという感じもするな。あんまり・・・、なんていうか、ヨット部を思うままに動かすなんてことは良くないんだよ。
いずれはそれも終結すると思うけど、時間がかかるな。
ヨット部の学生たちが元気にヨットを学ぶ そのためにOBがいるわけだから、くだらない覇権争いなんかしてる暇はないわけだよ。」


現在、すでに早稲田大学ヨット部は新しいリーダーの下、すでに走り出している。
最後に舟岡氏は代替わりしたヨット部にエールを送って下さった。



「キャプテンというのは非常に大変だと思うよ。
キャプテンがしっかりした考えを持って行動するということが大事だ。抽象的な言い方になるけど。
部員に早稲田のヨット部にいることに誇りを持たせる。
競技をする上で技術はもちろん大事だが、精神的な面が非常に大切だ。

ようするに、即断。決断が早く出来てそれに邁進する精神。
ヨットレースが始まったら思い切りよく自分でコースを決める。失敗してもくよくよしない。そういう精神的な強さが必要だ。

何故こう言うかというと、我々のころは今のようなスタート方式ではない。今のスタイルでヨットレースに勝つためにはスタートが大事だ。
一番最初にスタートできることが一番いいんだが、それよりも、もっと大事なことは全速でもって、スタートラインを横切るという状態。あそこで勝負が決まる。

早稲田の75年の伝統と、みんなの練習をみていると、いつ優勝してもおかしくない状態になっている。
プライドをもって、あんまり鼻を高くしないで、謙虚な気持ちを持つ。
海に出た以上、全部自分が責任を持つ。命がかかっているんだという自覚に焦点をおいて行動する。
みんながそういうものを持っていればヨット部というのは自然に強くなるものだ。そう思います。」


今年強いと言われながら優勝出来なかったヨット部。
そんな部員たちにとって同じ全日本の舞台で「勝った」事のある舟岡氏の話というのは本当に興味深い。「憧れ」を感じる。
しかし、舟岡氏は「特別な練習は何もしていないはず」と言う。

「練習日数も、大会の数も今の方が多いと思う。
ただ俺たちは早稲田大学ヨット部にいるという『誇り』を人一倍持っていた。」

そう話す舟岡氏の目は今もその『誇り』を持って生きている、と、語っているように感じた。


<1963年11月2日から3日にかけての天気図 資料:『75年の航跡 早稲田大学ヨット部75周年記念誌』p25 2006年刊>


44年前から今日まで、誰もが「見たこともない」というような天気図の嵐で、当時、学生ヨット界で最大のクルーザーであったのに、『早風』は失われた。・・・5名の現役と、指導してくださったお一人のOBと共に・・・
それは日本の大学ヨットが過去、経験したことのない大きな損失と挫折だったのではないか。

『早風』から、今の旗艦『稲魂』へ。
その間をとぎれさせなかったのは、『稲龍』の建造だった。
事故のせいで存続の危機さえありえた早稲田ヨット部が、『稲龍』建造を実現できたのは、
『早風』と共に海に眠った、部員青柳さんのおとうさまの
「『早風』に負けない船をつくってくれ」

とおっしゃられたご意志だった。
稲龍はやがて1973年に、おそらく大学ヨットとして初めて、日本一周の快挙を果たす。

今、僕たちが基地にしている小島合宿所も、同じように、
『早風』と共に海に眠る 部員小島さんのおとうさまのご好意とご意志からなるものだ。

早稲田の心意気
早稲田のプライド

そして、僕たちは、今、もう一度 ”外洋へのチャンス” を与えられている。
昨年の熱海へのクルージング
来年に予定されている館山へのクルージング。

勝敗を超えて、”受け継がなければならないもの”は何か。
それをしっかりと、伝えていただいたインタビューだったと思う。


文責:2年HP係 鈴木恵詞




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