早稲田大学ヨット部


■濱田 裕■

東京都 芝学園高校卒業
1951年 早稲田大学教育学部入学
    9月大型艇要員としてヨット部に入り 早風係として活躍
1955年 卒業 朝日生命入社
  朝日生命ヨット部でシーホースで活動
1978年 地方勤務を経て、帰京後OB会事務局
1994年 スナイプ級マスターワールド大会に出場
1995年〜 岩井・佐島で体育実技ヨット講師の支援
1997年 稲魂導入に関わる
以後、8年間 稲魂艇長

「稲魂はレースはしない。
あくまで海を知り、クルーザーに親しんでもらう。」

「ボランティア活動を主体にやっているよ。
大学のマークがついとるからね」
いいことをしなくちゃ(笑)

「それと、大事なのは、なんといっても実技。ヨットに乗ったことが一度もない人たちにも、広く、
なかなか体験するチャンスのない大型艇ヨットの楽しさをわかってもらうこと
そして、君たち学生を支援していくこと」



稲魂という船がある。

早稲田が所有する数少ないクルーザーの一つで、レースの時の観覧艇やOBとのクルージング、体育実技にも使われている
現役部員にも馴染み深いクルーザーだ。

とは言うものの、その生い立ちや建造の背景、建造から今に至るまでの話など現役部員も知らないことが数多くある。

今回はクルーザー 『稲魂』の艇長 で、その建造にも携わり、長い間稲魂を守り続けてきた濱田氏にお話を聞いてみた。

八王子のご自宅に招き入れて下さると濱田さんは

「駆けつけ一杯だ」

と笑いながら冷たいコーヒーを入れてくださった。
取材当日はとても暑い日だった。

寝室に向かい合うように座ると、ゆっくり話が始まる。

「稲魂が出来たのが、あれは平成何年だったかな。9年だったかな。
その頃は岩井で実技をやってたんだけど、それまで使ってた稲龍にだいぶガタが来てた。
デッキも壊れたりなんかしちゃってね。他にクルーザーを借りたりもしてたんだけど、いつまでも借りてるわけにも行かない。
だから新しいオーダー艇を作ろうという話が出た。」


もともと濱田氏は早稲田ヨットクラブ(早稲田大学ヨット部OB会)の事務局に53年から20年間も籍を置かれていた。
その事務局が中心となりOBに寄付を募って新しいクルーザーを購入しようという話が決まった。これが『稲魂』建造の始まりだ。

「その話を主体となって進めていたのは僕より年上の米田さん。
米田さんはその時OB会の世話役をやっていて、米田さんが大型艇購入の為の準備委員になって、寄付金集めの準備をした。」

寄付金は800万円程集まったものの、新艇を買うには足りなかった。

「中古を買うにも、今度は実技で使うだけのクルージングヨットにするか、レース用のレーシングヨットにするかで理事会で揉めたんだ。
結局はレース艇でなく実技があるから安全な船にしようということで決まった。
フランス製の600万くらいの10年落ちのクルーザーだった。」


<左:還暦祝いに早稲田ヨットクラブと朝日生命ヨットクラブから送られた舵輪>
   <右:スナイプマスターズ世界選手権のサイン盾>

フランス製のギブシー372。それが今の稲魂だ。
全長:11.45m メインセール:25.75u
ハル全長:10.90m ジェノア:44.15u
水線長:9.30m スピネーカー:88.0u
現在はスピンなし
ジェネカーに変更
最大幅:3.65m マスト/水面:15.04m
吃水:1.80m 機関:ヤンマー3GMF
(24馬力)
船体重量:5,400kg 燃料タンク容量:110L
バラスト:1,900kg 清水タンク容量:左右で200L
<『稲魂』就航を告げるOB会誌『航跡』>
クリックすると拡大します
「集まった寄付金の中から600万で購入してセールから塗装から何からやり変えて
修理代まで1000万近くかかった。
それで、出来あがったのが平成9年、・・・9年だろうと思う。
今年20年だから、今ちょうど10年経ってるね」

以前の舟岡氏の『OB列伝』のお話にもあったが、そのギブシー372はもともと
OB舟岡氏の勤めていた巴工業が10艇ほどを輸入したうちの一つだった。
江ノ島で売りに出ていたその中古艇を600万で購入し、修理した。

1999年7月の体育実技から就航
『早風』から始まる早稲田の旗艦は『稲龍』から『稲魂』に変わった。

『稲魂』は当時の奥島孝康早稲田大学総長の命名

船尾の文字も総長直筆だ。

「まあ、そんなことで稲魂を買ったときに米田さんから
『せっかく実技で学生の面倒見るんだから、稲魂の面倒も見てくれんか』
と言う話があって『いいよ』ということ引き受けたわけだ。

それが稲魂を引き受けた最初の話だよ。」

話は濱田さんの現役時代に移る。


<左:横浜でのインカレレース風景>
<右:蒲郡のクラブ選手権(早風クラブで出場)>

<横浜合宿所の庭で加藤文生学院部員>
(のちの加藤監督若かりし頃)


<呑龍デッキー(当時のLクラスの艇)>
「僕が入部した時は早風を作る年でね。ヨット部が大型艇の募集をやってた時なんだよ。
昔は大型艇と小型艇、別に募集してて、9月に大型艇の募集があった。
ヨット部には、その、『早風係りにどうだ』という話で入ったんだ。だから学生のときは早風係りだった。
その時の艇長が、28年卒の僕のふたつ上の佐伯浩さんという人だった。」

武村さんの話にもあるけれど、あの時は隅田川造船所船を作って、勝鬨橋でマスト挙げてと言う時代だよ。
『早風』は、大きさ、重さ共にドラゴン級に少し似てるかな。
とにかくエンジンがないあの頃は、出たり着艇したりするのが大変だった。今はエンジンがあるから大丈夫だけど」

<横浜のポンド沖>

濱田さんは早風係りとしてヨット部に入部したがディンギーの活動ももちろん行っていた。

「ディンギーではスナイプに乗っとった。
昔はレースそんなになかったからね、
インカレと早慶戦くらいしかなかったから記録はあまりないけど、同期中沢氏とスナイプに乗っててね。
彼はもう死んじゃったんだけど、早慶戦でオールトップとったって記録があるくらいかなぁ・・・」

濱田氏は現役の時には大して活躍できなかったと言って笑うが、ヨット部卒業後も実業団の大会に出ている。

「僕の高等学校の先輩が立教ヨット部出身で朝日生命にいたんだけど、その人に
『船もあるし女性もいるから(笑)来ないか』
って誘われて(笑)

その頃の実業団はちょうど各会社がヨット部を作り始めたころだよ。
それで、松本さんとか舟岡さん、日色さんが巴工業に入った。
同志社は島津製作所。
あの頃の実業団は島津製作所と巴と中井商店(慶應出身の棚町・石井政行氏・東大出身の酒井原氏)が強かったね。

僕は、もう死んじゃったんだけど同期の佐伯恵三と朝日生命に入って実業団の大会に出たことがある。」

「岡本さん 岡本造船所 の岡本豊氏) が横浜の造船所のあそこでポイントレースなんかやってた時代だよ。」


<朝日生命ヨット部・横浜ヨットハーバー堤防>

<朝日生命時代の濱田氏・鎌倉海岸>
「その後、早風が故障して寄付が必要になって、なんか方法ないかということで、
先輩に保険に入ってもらって、その手数料をクルーザーの寄付にしたことがある。
それが32年か33年だったかなあ。

ただOBにお金を寄付してもらうだけじゃ申し訳ないから、保険に入ってもらって、その手数料を寄付しますからってことでお願いしてね。
(そのパターンは) 「よくある」っていわれたよ(笑)

「僕はその後昭和34年に東京を離れたんだけど、早風が37年に沈んだでしょ。
本当に、駆けつけたかったんだけど、その頃大阪で胸を悪くして療養しとって動けなかった。
そんないきさつがあって東京へ帰って来たのは、20年近く過ぎた、52年か53年だった。」

早風の最期に立ち会えなかった。

それは学生時代「早風係り」だった濱田さんにはとても悔しく、寂しい出来事だったに違いない。

やはりどのOBの心の中にも「それぞれの早風」がある。
取材を重ねていく中で、記念碑や記念誌「航跡」の中でしか見たことのない早風沈没が
早稲田大学ヨット部にとってどれだけの損失であったかがわかる。

話を濱田さんが東京に戻ってきた時に戻す。

「実はその東京に戻ってきた昭和53年の1月に運動部のお金が危機に瀕してるという話が出て、OB会をなんとかしないとという事になった。で、会報を使ったんだ。

OBを集めてなんかやらないとお金が集らないから、OB会の会報を発行した。
それやりだしたのが僕とヨネさん
29年卒米田晴二氏 の二人。
どっちかというといかにしてOBを集めて金を出してもらって学生をバックアップしようかというのが僕の仕事だった。」

(東京に帰って来た濱田さんは会報を使って学生をバックアップしていく活動と同時に、朝日生命ヨット部の活動も欠かさなかった。
自分のヨット活動と、学生の支援。二足ワラジの生活が待っていた。

「帰ってきたらすぐ当時総務部長をしていた先輩が
『俺は総務部部長やらないといかんからヨット部の方を、かわりにやれ』
ということで、53年から朝日生命のヨット部の部長をやった。

まず人集めからやったね。

江ノ島にあったシーホースが全部で7杯あったんだけど、東京に帰ってきたら2杯しかなくて、しかもボロボロになってた。
これは一から作り直さないといかんということでシーホースを作り直した。
その頃はこっちの早稲田のクラブの支援と、朝日生命のシーホースの活動を江ノ島クラブでしていた。
あの頃社会人はシーホースを中心にしていたね。
今は銀行が多いけど、あの頃は商社や造船関係が圧倒的に多かった。」


<朝日生命時代のヨット部員>

東京に帰ってきてから精力的にディンギーで活動してきた濱田さんの最後のレースは
スナイプのマスターズの世界選手権だったという。


<シーホース全日本・江ノ島沖 三色スピンが朝日生命>
「45歳以上でなおかつ合計85歳以上。

蒲郡の海陽で世界選手権があったんだけど、それを最後にしてやめた。
平成6年、このマスターズで最後だ。

世界選手権だったからそのときセールまで新調してやったけど、やっぱり勝てなかった。もう、ディンギーはやめたね。今から14年前だ。
僕が今76歳だから、定年くらいまでは乗ってたんだけど、もう厳しかった。

もうね、船の上で脚すべらしたり、すっころがるようになったらもうだめ(笑)

特にシーホースもスナイプもそうだけど、今は底が浅いだろう。
昔は深かった。
今は全部底が浅いだろう。 もう、這いずっていかんならん(笑)。

あれにはまいった。
タックする度にすっころがるしさ。(笑) 膝がいうことをきかん。」

ディンギーレースを退いた後の濱田さんは活動の舞台をクルーザーに移す。 稲魂船長としての活躍が始まる。
<塗装する前のギブシー372>



「もともと稲魂は油壺にあったんだよ。
稲龍の時代から係留料やなんか学校がお金を出してた。
だけど、係留料は漁業権の問題があって100万近く経費がかかってた。
遠すぎるということも、難点だった。」


江ノ島へ持って行ったいきさつは、うちの先輩で昭和22年卒の清水さんて人が、江ノ島にクルーザーのバースを持ってたわけ。『油壺でなくて江ノ島で活動したらどうだろう。バースは学校へ寄付するよ』って。その代わりに学校がバース料を払うという話になった。」

ところがこの話、そうは簡単にいかない。

「話が出たのはいいけど、
『江ノ島のバースは県のバースだから所有者が手放したら申し込みは抽選だよ』
と県から言われてしまった。

ただその時たまたま江ノ島ヨットクラブの会長やってたのがOBの昭和30年卒の松本さんなんだよ。
松本富士也氏。舟岡さんと一緒に東京オリンピックに出場した、ね。

彼が県といろいろ交渉してくれて、名義は清水さんの名前で、清水さんが稲魂をあそこに入れるという名目で、
一般の抽選ということではなくて優先的にバースを利用してよいという了解を取り付けた。」


江ノ島にバースが見つかったものの、今度は整備費や維持費が問題になった。

「最初は整備費を年間30万くらい早稲田ヨットクラブから出してもらってたんだけど、家と一緒で、船も動かさないと痛むからね。

とにかく常時乗る工夫をしなきゃいけないということで『いろんな人を集めること』を考えたね。
ということで、たくさんの人に呼びかけた。
維持費は年間で100万ちかくかかるんだけど、クラブとしていちおうとりあえず出してもらう。だけどそれ以外になんとか自力で維持できないかという話で。

クルーザーの利用料をとりながら経費を出していこうという話が出て、メンバー集めを始めた。その時協力してくれたのが同期の遊佐さん。」


<2002年 OBレース葉山マリーナ内>
<左より米田氏(S29)杉井氏(S48)平戸氏(S48)濱田氏(S30)是枝氏(S30)鈴木賢太郎氏(S30)土肥氏(S36)>

はじめは濱田さんの同期のOBの方々や知りあいのメンバーを中心に、利用1回2000円から始まった。
でもそれだけでは維持出来なかったという。


<OB仲間はじめたくさんのお客さん達にイベントを提供した・ゲスト主体の艇内>
「江ノ島へ来てから、いろいろ経費がかかるんで、年間10回までは2万円だからということで年間2万円を会費とした。
江ノ島へ来るまでは一回あたり2000円。学生は無料だ。
OB1回2000円、お客さんもゲストも2000円ということで、なんとか修理代を出しいこうというふうに利用してたね。

油壺にいるときは三崎まで行って、あそこでマグロ食わして帰ってくるとかね(笑)
それからフォトサービスでいろいろやってくれるとか。
あとはレースの観覧艇を出したりもして。大変だったんでね、あの頃は。」



「現在は江ノ島で週末の定期運行として活動すると同時に、江ノ島ジュニアヨットクラブのレース本部船や、身体障害者のヨット体験会など江ノ島ヨットクラブのボランティア活動もしているという。

クラブの活動をお手伝いしようということで始めたのが5月の第二日曜日に身体障害者のヨット体験会というのがあるんですよ。
そのお手伝いをしようと。ボランティアだけどね

あと江ノ島ジュニアの本部艇のボランティアもしている。
OPはかならずね少々風がふいてもやるんだよ。15mとか吹いてもやるんだよ。 本部艇はOBは(年だから)たまったもんじゃないけどね(笑)一日中朝からずっとだし。

故小沢さんのときもやったんだが散骨も結構やるんだよ。他に故石井会長、故河村さんなど。

それ以外に今9月にやってるのが評判がいいんだけど片瀬小学校の体験会
  小学3年になると自動的に江ノ島クラブにくることになってる。
これは松本が学校の先生にたのまれて江ノ島のクルーザーが10杯くらい出動する。1学年100何十人全部のせなきゃならないからね。
毎年9月授業の一環なんで平日なんだよ。

平日だと現役社会人のOBは頼めないから定年組みが頑張る。
ボランティアの活動としてはそういうことをやってるよ。


「稲魂はレース艇ではありません。海と船を楽しむこと
仲間をいかにして増やすかということを中心に考えて行く」

「社会奉仕という意味でボランティア活動を主体にやってるよ。
大学のマークがついてるからね。バカなことはできん(笑)」

それとやっぱり大学の船だからね、学生を支持して行かないといけない。

大事なのは、なんといっても実技
小型艇とちがってクルーザーというのはロープワークが全然ちがう。
それを知ってもらうためにはひとつあったほうがいいんじゃないか。
大型艇の研修のためには、ぜひあったほうがいい。

気の合う仲間と一緒に、純粋に海を楽しむ」
そんな濱田さんの下にはたくさんの仲間が増えた。

「最初のメンバーは8人だったんだけど、OBなんかも合わせて今はたしか30数人いるんじゃないかな。

だけど最初は8人位しかいなかった(笑)今は30何人で当番制にしてるよ。

第一週が小坂君の41年卒組、第二週が川原君なんだけど、若いこの代がなかなかメンバー集らんということでちょっと大変そうだ。
第三週が49年卒組の三塚・早川組。
第四週が従来のわれわれ、濱田の29年、30年卒組という制度になった。おととしからそうやって去年から正式に決まった。」

今は小坂くんがコントロールタワー(艇長)やってくれてて、会計が三塚君
スケジュールやなんかは小坂くんにたのんでる。
それまでは僕が1人で8年やってたんだけど、もうそろそろかんべんしてくれと・・・(笑)

やっぱり70いくつになって連チャンになってくると、だんだんきつくなってくるよ(笑)
ここから油壺行くの3時間かかるんだよな。稲魂、乗るの2時間で、帰ってくる片道3時間。往復6時間
今は江ノ島だから、片道2時間でいいけど、それでも往復4時間だもんなあ。70越えると、きついよ(笑)


「稲魂はレースはしない。
OB会の会報にもはっきりと明記されている。」

「もともと早風の時も、前のクルーザー(稲龍)にしても全部レースが主体だった。
だけど、これは買ったときから実技の支援が主体だった。
それでOB会が買って学校に寄付したわけだよ。

『実技で主体で使うから寄付します。そのかわり出すものはお願いします』と、
こういういきさつがあるわけだな。」


あくまで海を知り、クルーザーに親しんでもらう。
そのモットー、規則に憧れて、たくさんの海を愛する人たちが集まっている。

「レース出たいんだけどね、レースに出るにはメンバー集めなきゃならない
それは無理なんだよ。はっきり言ってね。

この前も江ノ島クラブにレースに出ませんかといわれたんだけど、レースに出るには最低でも6人の経験者がいなきゃ無理なんだよ。
だからこれから学生が大型艇やレースに親しんでもらって、将来的には、そのへんのレースに出られんことは無いと思う」

東大もクルーザー班がある。
伝統ある早稲田にないのは寂しい気もする。

「そう、そのためには学生の中にクルーザーを知ってる者を作っていくことが大事だ。」


後列:森氏(S41)小坂氏(S41)濱田氏(S30)早川氏(S49)原田武氏(S37)遊佐氏(S30)
前列:川原氏(H1)三塚氏(S49)斎藤氏(S40)

「ほんとは二・三年前油壺におった頃は、稲魂係って部員がいたんだよ。
彼らは結構乗ってくれたんだ。
永野間くんとか、山本君、その前の島田君、大塚君、吉峰君、最後は重(しげ)くん。 それから急に人が減ったんだよ。あの頃・・・
ちょうど小澤さんの散骨式があった頃かなあ・・・」
「本来は学生の船だし、部の船だからね。
我々のときは学生がみんな管理してたんだからという思いもある。」

「でも、あの頃急に部員が12・3人に減ってしまって、学生のレースに出るのもやっとという状態になってしまってね。
稲魂係りまではとても無理だった。
それで、しようがないからOBが運営してきたんだが、本来的には学生が管理できればそれが一番だと僕は思ってるよ。」


<創立者・晩年の小沢名誉会長をかこんで>
<後列左より中田氏(S31)濱田氏(S30)武村氏(S32)○○氏(?)大氏(S40)大原氏(S53)>
<中列左より安藤氏(S30)鈴木氏(S30)千葉氏(S30)是枝氏(S30)
松本氏(S30)遊佐氏(S30)安井氏(S31)舟岡氏(S31)>
<前列左より石川氏(S28)伊井氏(S25)小澤名誉会長 石井会長(S28)河村氏(S28)金澤氏(S29)>
<故小澤氏 散骨式>
お孫さんが舵をとる稲魂で海へ還る


実は、畠山監督も、この稲魂係りを復活させたいとおっしゃっている。
今は部員もその頃の12・3人ではなく、33人になっていることもある。

かって学生ヨットで最大のクルーザーを持っていたのが早稲田だった。
学生ヨットとして初めて、稲龍を1年かけて日本一周の快挙を成し遂げたのも早稲田である。

いつも、早稲田が先端を走っている。
大型艇の伝統を惜しむ声を、インタビューしてきたどのOBの方からも僕は聞いてきている。

「僕は、実技の終わった後とかに、以前にようにクルーザー係りの部員募集をしてもいいんじゃないかなと思う。
今はわれわれの頃と学生レースのスケジュールが違うから、全日本前でむずかしいかな・・・
時期はともかく、専門にクルーザーのことを教えて行くというやつを昔と同じように作ってあげると。
最初は月に1回 乗るだけでもいいからね。


一番たいへんなのはやっぱり、急に天候が変化したときの、持って行き方だけだよね。発着とね。

特に秋、台風の前後には気候の変化が激しい
前線だけはある日突然でてくるからね、
特にこの頃のように雷が多いと怖いよな、いつの間に前線でてくるかわからんから

しかし、どんな天候でも走らせる
そういう経験も必要じゃないかな

まあ1人か二人好きでやってくれる人がでてくると、それで跡継ぎ作ってくれるといいと思うよ。最初から全部はできないだろうけど。
それでやっぱり年二回くらいはね。クルージングしたらいいと思うよ。熱海なり下田なり」

「月光とちがって、稲魂のばあいエンジンのパワーが細くて1つしかない。作りが小さいからあれ以上大きくもできないんだよ あの船。それが難点。」

「レースとなると無理をするから、だから稲魂は無理してレースしなくていいと思う。
クルージングを楽しむということから初めていけばいいんじゃないかな。」

「あと10年くらいは稲魂が持つかもしれんけど、その次にはレースの出来る船をつくればいいんじゃないかな。

その時までにクルーザーの経験者を増やしておかないと
君達がOBになって乗る時に、レーシングやれる人間をふやしておかないと、どうにもならんじゃん。」

「僕の場合は『早風係り』から早稲田ヨットに入って、稲龍・稲魂と実技でお世話をしてきて・・・

まあそんなことで、OB会の先輩たちと、たくさんつながりができたってことは確かだよね。
何が幸せだったかわからんけど(笑)」

そう話して濱田さんは笑われるが、
ここまで海を愛し、稲魂を舞台に、多くの方々を海へつれて行き、
たくさんの笑顔に囲まれた10年を稲魂と過ごされた人生は
まちがいなく、とても豊かだと憧れを覚える。

今も、10年後の早稲田ヨットの姿を思い、
学生のヨット活動に無償の援助をして下さる濱田さんをはじめとするOBの方々には
感謝してもしきれないと感じると同時に、純粋に尊敬出来た今回のインタビューだった。

企画制作:3年HP係 鈴木恵詞




© 2006 Waseda Yacht Team All rights reserved