早稲田大学ヨット部

■石合 幸彦■
岡山県 児島高校卒業
1967年 早稲田大学教育学部卒業
    (株)SB食品で17年間外洋中心に活躍
1968年 チャイナシーレース出場
1972年 サンバード号でシドニー・ホバートレース出場
1975年 ミヤコドリでトランスパック 3位の快挙
シドニーホーバートレース再出場・サザンクロスカップ出場
2000年より早稲田大学体育実技セーリング授業講師
2002−2003年日本一周フラッグリレー 旗艦スーパーサンバード艇長として活躍
2003-2004年東京ヨットクラブJSAF委員
2004年 同クラブはこどもの日クルージング等のボランティア活動で東京都知事より感謝状を贈られた。
 
ワールド大会になると向こうの連中はオリンピックメダリストがスキッパーで出てくる
サンバードU世は国内では抜群に速かった。しかし、あの当時、ワールドへ行くとなかなか厳しい。
負けると悔しいもんだよ。35年たっても、悔しい思いがいまだに、僕らは残っている。

最初に石合氏の外見から受ける印象は「厳しそうな先輩」だ。長身に少し切れ長の目、低く落ち着いた声は非常に印象に残る。しかし、少し言葉を交わしてみるとその目にはヨット部を大切に思い、応援する優しい気持ちが宿っている事に気づく。
JR川口駅から車で10分の閑静な住宅街。
木の切り株をモチーフにしたおしゃれな机につくと石合氏は言葉を選ぶようにゆっくり話し始めた。
「大学3年まで横浜の本牧で練習してた。今のベイブリッジの辺りだよ。
そこに関東のほとんどの学校が合宿所を持っていたんだよ。
合宿所と言っても長屋の中を仕切っただけのものだったけどね(苦笑)ただ、早慶だけは別だった。
別棟の合宿所。しかも300〜400坪はあった。海に面するようにね。周りに比べたらかなり贅沢なほうだった。」
石合氏の目は当時をはっきりと思い出し、懐かしんでいるようだった。
「もともと合宿所があった横浜のハーバーは、幻の東京五輪 (第二次大戦で中止になった) の開催地として国が開発した場所だった。
戦後、江ノ島に東京オリンピック用のヨットハーバーができたのと、本牧の埋め立て工事のために閉鎖になっちゃった。
本牧のハーバーの代替で八景島のヨットハーバーができのは平成5年だから、約30年間、本牧のヨットハーバーの大学はジプシー状態だったと思う。
昭和43年に早稲田は小島さんのご好意で立派な小島合宿所を提供して頂いたので大変幸運だったと思う。
我々の前後3〜4年間が早稲田もジプシー生活で一番苦労した年代だと思う。」

「本牧のハーバーが閉鎖になった後、関東インカレは富岡海岸(現在の京急線沿線の京急富岡付近。潮干狩りで有名な海岸) で開催された。
それから森戸海岸へ移った。富岡では満足のゆく宿舎もなくて、早稲田は青砥会館っていう公民館が宿舎だった。
舞台なんかあるオンボロの建物で机を寄せてその上で寝る状態だった。たまたま富岡へ移動する時、僕と同期の中村重昭君が食当で、早朝4時前に起床、本牧の合宿所で朝食を準備し、終了後即、鍋釜、食器類をカツイでバスを乗り継いで、青砥会館へ移動。国道16号わきに、オクドを作り、全員の昼食を作った思い出がある。
酷い環境だったよ!まあ酷かったね(笑)」

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早稲田はその後、S45年に三戸浜の合宿所に移る。それまではまさにジプシーのような合宿生活を送っていたのだ。それでも新入部員は70〜80人近く入ってくる。
「当時は新人合宿ってのがあって、それは『その70〜80人の新入部員をいかにして少なくするか』だった(笑)。多すぎて合宿所に入らないからね。
今では信じられないけどそういう時代があった。今みたいにレジャーが多様化してないから、スポーツとかそういうものしか若者の楽しみがなかったからだろうね。」

おおいに賑わったこともあって、石合氏の代は関東インカレで優勝してもいいレベルだったという。 。
「私は大学時代はスナイプだった。早稲田騒動なんかがあって、学校がしばらく閉鎖されてしまうし、大学のスケジュールもガタガタ。インカレの時に試験だなんて・・・。
そういう意味では(騒動に)巻き込まれたのは大変不運だったね。」

その後石合氏はS42年に先輩でもある現在の日本セーリング連盟会長、山崎達光氏が勤めるSB食品に就職する。活躍は外洋レースの舞台に移る。

「最初に出た外洋レースが68年のチャイナシー(香港〜マニラ)レースだよ。
これはそのときの記念品。もう年代物になっちゃったけどね。」

香港は石合氏にとっての初めての海外だった。
1ドル360円というドルの強い時代。
なのに、日本人が外国に行くのに500ドルしかくれなかったという
「足りるわけがないから闇ドルを手に入れていく。
そういうことから始まって外洋レースは、
自分たちの身は全て自分たちで守らなきゃならない。」



香港マニラレースに出航する<ふじ>(のちのサンバード1世)
写真:「NORCの航跡30年」(日本外洋帆走協会出版:1985)

「香港のワンラン灯台を目指して航海したのが3月の20日ごろ。
香港は英国領だったけど、中国の一部だから、ちょっとずれて中国側へ行ってしまうと紅衛兵に拿捕される。それが怖かったよ。
香港近辺はこの時期梅雨期で、台湾島の南端ガランピ岬(バーシー海峡)を通過して二昼夜、豪雨と雷雨の下でのセーリングは辛かった。 二日目の早朝、やっと香港の近くの島々が見えてきた。
香港島入り口のワンラン灯台は、小高い丘の中腹にある。
朝霧の中に浮かぶ白亜の灯台を確認した時は感動的だった・・・。」

「香港水道に入ると、左に香港島、右側が九龍サイドで、港のほぼ中央に英国の大型空母一隻、巡洋艦数隻が停泊していて、ユニオンジャックの旗がたなびいていた。
へたすりゃ海賊みたいのにつかまっちゃうようなおっかなびっくりの航海だったので、英国の軍艦を見た時は嬉しかったよ。つくづく、国家の基本は軍事力だと思った。」

<1971年のワンラン灯台>
「香港にはレースの2週間前に到着したが梅雨で天気は悪く、居心地は決して良くはなかったように記憶している。いざマニラまでのレースが始まったかと思えば、2日ぐらい全く風がない、ひたすら暑い。
朝見たゴミが夕方まで一緒にいる状態。」

「それでもなんとかぷかぷかしながら少しずつ進んで、コレヒドールの灯台まで六日くらいかかったか。
ルソン島の影が見えた。マニラに入るのにまた小1日・・・
まだ対日感情が悪くてマニラは居心地が悪かった。

泥棒・強盗なんかもいたし、レースの結果もあんまりよくなかったけど、あのレースが僕のヨットの原点だったと思う。」


 
「サンバードというフネのお話を聞かせて頂けませんか?
歴史に残る名艇だったそうですね。」

<サンバードU世>
写真:「NORCの航跡 1954-1999」(日本外洋帆走協会出版:2000)
「サンバード号は(株)ヱスビー食品のヨットでSUN−BIRDの頭文字(SB)はヱスビー食品の社名なんだよ。山崎会長(S32年卒OB、現JSAF会長) が若い時より情熱を注いで建造したヨットの総称だ。

私がサンバードのクルーとして関わったのは、昭和41年から昭和47年の7年間。
その後アメリカズカップのキャンペーンが16年続いたわけだ。」

「まず”フジ”を買って”サンバード”という名前にした。
その後、”サンバードU世”号、1トンクラスの舟を建造した。
38ft、オールマホガニー材の木造艇、最先端の艇でNORCのレースを総なめにした名艇だった。
目的は72年のシドニーの1トンのワールドカップに挑戦することだった。
・・・16艇中14位。散々負けたけどね。

ワールド大会になると向こうの連中はオリンピックのメダリストがスキッパーで出てくる
サンバードU世は国内では抜群に速かった。
しかし、あの当時、ワールドカップやオリンピックでは日本のヨットは勝てなかった。

だけど、負けると悔しいよ。35年たっても、悔しい思いで一杯だ。」

国内トップレベルの艇を作って挑戦した。しかし結果は無念だった。
とにかく
「日本の外洋レースも全体のレベルが上がらないと勝てない」 と感じたという

「我々が(海外に)行ったのも一つの礎なんだよ。
そういう(敗北を)ひとつひとつ乗り越えて強くなっていく。」
その後、75年に54ftの”サンバードX世”を建造、同時に同型の”都鳥”というフネも建造した。

「サンバードは人手があるから私は”都鳥”のほうを手伝って、トランスパックに出た。
そしてサンバードと一緒にシドニホバートに再挑戦、それからサザンクロスカップにも出た。」

中でもトランスパックでは、クラス分けで一番大きいAクラスで出場。16艇中3位に入った。

75年のトランスパックには、かの有名な石原裕二郎氏も乗っていた
「私がクルーのまとめ役をやってたんだけど、トラブルがいっぱいで大変だった。」


その時のトラブルとは次のような事だ。

当時飲み水として900Lの真水を積んでいたのだが、そのタンクがキールの上に乗っていてボルトが清水タンクの中にあるという構造だった。
バラストキールが9TONあったので、負荷がボルト部分にかかり、隙間が出来てしまい清水タンクの中に海水が入ってきてしまった。


<都鳥V世>
写真:「NORCの航跡30年」(日本外洋帆走協会出版:1985)

<サンバードX世>
写真:「NORCの航跡30年」(日本外洋帆走協会出版:1985)

「水がないのが一番きついよ。
海水で米を洗って炊いたら、ショッパくて食べられない。
海水って言うのはショッパいものだとつくづく感じた。

レースも後半、あと3日はかかる位置でほとんど水が無くなってしまった。
最後はライフラフト
(救命いかだ) の中に緊急用の水があるからあと二日なんとかなるかな。そう思ってた。
・・・まあその水までは飲まないで済んだんだけど

裕二郎さんが瘠せてすっきりしちゃってみんなびっくりしちゃった。

(米も炊けないから)ほとんど最後の方は飲まず食わず。
よく太ってるやつはまだいいんだよ。ちょっとしぼむくらいで。(笑)
やせてるやつは顔を見てると、なんか寒くなるようでね。
もう完全に脱水症状だよ。」

「そんな過酷なレースだったのに、裕次郎さんは気遣いの細かな人でね、二週間のレースの間、いつも爽やかで、周りの人達を元気にしてくれた。
本当に素晴らしい海の仲間だった。」


<S52年サンバードに乗る石原裕次郎>
写真提供: 甲南大学クルージング部 OB島田宏氏


「実はその時、裕次郎さんは病気上がりで体調も完全では無かった。
私は心配で、レース中は、心配と責任感で夜もよく眠れなかった。
後に、お亡くなりになった時、葬儀に参列させていただいて、
「あの時は大変申し訳ありませんでした」と焼香させていただいた。
いまだに、あの爽やかなお人柄を思い出しては申し訳なくおもっているよ・・・」


それから月日が流れ、昭和56年。
日本がアメリカズカップに挑戦することが決まった。
だが、ちょうどその頃、石合氏の父が亡くなられ、石合氏はSBを離れ、父の会社を継ぐこととなった。

 

<石原慎太郎東京都知事とスーパーサンバードで>
「アメリカズカップへの挑戦は山崎会長が中心で、準備期間が四年、そのあと本戦チャレンジ三回、合計16年。
日本ヨット界の大キャンペーンだった。
武村OBも、チームの事務局長として強力にバックアップした。

アメリカズカップは世界中から呼んだプロの選手や50名以上のスタッフがチームを組んで挑戦する。
国力を賭けての一大チャレンジだ!
セールをつくる技術、フネをつくる技術、セーリング技術、チームマネージメント。
蒲郡基地を中心に16年の挑戦は日本のヨットのレベルアップに計り知れない貢献があったと思う。
アメリカズカップへの挑戦がなかったら、今の日本のヨットレベルはなかったと僕は思っている。
大挑戦を立ち上げ、やり抜いた山崎OBに、最大の敬意を表したいと思います。

「ただ今のアメリカズカップはお金の世界というか、コマーシャルベースになってしまった。
少し、残念に感じる部分がある様に思われる。
昔はもっと純粋なセーラー魂をベースにしていたと思うよ。」

石合氏は世界一周のボルボオーシャンレースを外洋レースの究極だと思うと語る。
チャレンジ性もある、氷河が浮いているような所を30ノットの速さでぶっ飛ばしていく。
非常にハードではあるが、冒険心をくすぐられる。


「日本もボルボオーシャンに挑戦するという話が出ているけど、とても嬉しいし、血が騒ぐよ。
実現するかは容易じゃないにしても、僕は
(アメリカズカップより) そっちがいいね。」

石合氏はSBを離れて15・6年もヨットに乗らずに仕事に専念していた。
そして今からおよそ7年前、早稲田大学体育実技の講師を依頼された。


「最初にやってすぐ、もう岩井を変えようと思った。」
「早稲田の実技は昭和24年にスタートしたそうだ。そんな早くから熱心にヨット実技をやった大学は早稲田くらいだろうと思うよ。
当初は、本牧ハーバーでの通いの実技。館山海岸実技合宿。岩井海岸での実技合宿は昭和41年より平成12年まで年間続いた。

平成12年講師をお受けすることになり、初年度は岩井実技を受け継いだ。
実技の環境も様変わりで、特に、かつて全学生必修科目であった体育実技が
選択科目に格下げになっていたことが大きな変化だった。当然、定員割れ状態で、このままでは、閉講になる予感がした。
今の学生に受ける実技には、場所の問題が一番だと感じ、
佐島に移すことにした。
実技生の負担は85,000円と、倍近くになったが、
多くの実技生が履修しているよね。
今の学生は、満足度には出費してくれるものだなと実感した。」

体育実技のヨットとは要するに「初級ヨットスクール」だ。
初心者のためには海のコンディションも、設備も充実しているに越したことはない。
現在実技を行っている神奈川県湘南の佐島マリーナは、
ハーバーに隣接するように非常にきれいなホテルがある。お風呂も大きいし、プールもある。環境は申し分ないと思う。


「なにより実技生にとって楽しい実技でなければと思う。
実技生にとって楽しい実技は、洋上でのセーリングチャンスをいかに多くするかだ。
陸上での手旗訓練等は興味がない。

そこで、OBに協力してもらってクルーザーも出して
実技生は、クルーザーなりディンギーなり
期間中はいつもヨットに乗れるようにした。、
でもこれにはOBの手助けが不可欠。

私がいつも言ってるのは
『今の佐島の実技は
講師、現役部員、OBの三位一体の体制』

協力してくれるOB仲間には本当に感謝している。
早稲田ほど質の高いヨット実技を実行している大学は
他にないと思うよ。」



本当にその通りだと感じる。
現にヨット実技を取ってくれた生徒は皆「楽しかった」と言って佐島を後にしていくし、
毎年定員を超える応募者があり評判も良い。

ヨット実技も、将来ヨットを楽しんでくれる仲間を増やす、有効な”未来への礎”なのだと思う。


そして石合氏は最後に『ヨットの楽しさ』について次のようなメッセージをくださった。


「私はヨット大好き人間!
私は早稲田ヨットクラブ大好き人間!
何かのご縁で早稲田大学ヨット部に入れて頂き、幸運だったと思う。

良き先輩に恵まれ、良き同僚に恵まれ、良き後輩に恵まれ、
楽しいヨットライフを続けられるのも、早稲田ヨットのお陰です。

血眼になって勝ち負けにこだわったヨット。
海外のオーシャンレースに夢中になったヨット。
それぞれに楽しいヨットでした。

最近はセーリングが楽しくてたまりません。飽きを感じません。
瞬間瞬間、風が違います。風と遊んでいるので、飽きることは無いのです。
今後とも風と語らいながらセーリングを楽しみたいと思っています。
ヨットが私のライフワークであるように、現役生達もぜひライフワークとして楽しんでほしいと思っています。

最後に、今日まで、私のヨットを支え、ご指導いただいた山崎会長(S32年卒OB、現JSAF会長) 武村OB(S32年卒OB、現JSAF事務局長) に心より感謝もうしあげると同時に、心より御礼申し上げる次第です。


今回石合氏は一人の先輩としてたくさんのお話、そして何より現役部員にエールを送って下さった。

「我々が(海外に)行ったのも一つの礎なんだよ。
そういう(敗北を)ひとつひとつ乗り越えて強くなっていく」

というお言葉があったが、本当にその通りだと感じる。

これまでの先輩方の努力、ヨット部に対する想い、がほんの少しでも足りなければ、今のヨット部の快進撃はなかっただろう。

このインタビューは全日本インカレを目前に控えた状況でお伺いさせていただいたが、
今年度の全日本インカレが無念な結果に終わった今、
このような先輩の経験に裏打ちされたお言葉ほど現役部員を奮い立たせるものはない
と、しみじみ感じる今回のインタビューだった。

文責:2年HP係 鈴木恵詞




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