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■川原 康嗣■
東京都 早稲田大学高等学院卒業 1999年 『DABOHAZEJr.』でJ24全日本22位 2000年 8月NEW YORK赴任 2003年 MBODフリートの『Miss B Haven』のクルー、後にヘルムスマンになる 2004年 『Miss B Haven』サマーレガッタ優勝・シーズン優勝 2008年1月 『Pucapuka』(Beneteau Oceanis Clipper 331) 進水 共同オーナー(住友商事ヨット部の仲間と) |
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「中学のころは走っても遅い。野球 打てない。高校までギターひいててバンドもやってた。 渋谷・原宿を平日からうろうろ。夜はブランド服着て六本木。女の子大好き。(笑) 自分で言っちゃうけどオシャレな文系の子だった。 ヨット部と海が僕を男にしてくれた。
会社を3週間休んで世界選手権に出た時、仲間に申し訳ないとは思ったけど、会社に対して遠慮だけはしなかった。
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「川原さん、すいません、 ちょっと待って下さい(汗)テープ回します!」 と僕は思わず話をさえぎってしまった。 次々と面白い話が飛び出して来て、 気がついたらインタビューが始まっていたからだ(笑)
「まあ、パッと晩御飯食べて、話は僕の自宅に行ってからゆっくりしよう」
高校の時は文系のおシャレでオンナ好きの高校生だったという話
川原さんには自分が高等学院ヨット部の時からお世話になっているが、川原さんのお話は本当に面白い物が多い。聞いている人が思わず引き付けられてしまう。
「NYに赴任して3年目、ヨットに乗りたくなって、いろんな人にツテを尋ねた。 |
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「彼女(その船のオーナー)グレースって言うんだけど7月4日独立記念日に、 『毎年船でパーティーをやっているから家族で来てくれるか』 っていうから、それはもう喜んで参加した。」
その船ってのが、木造の優雅なクラシックパワーボート。 |
![]() 独立記念日にグレース・アレン主催の船上パーティーで |
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川原さんは2002年から2004年まで3年間、Manhasset Bay Yacht Clubで彼女の船『Miss B Haven』のヘルムスマンとして活動し、 2004年にはシーズン優勝もしている。 |
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「この冬は寒さが厳しくて、僕のマンションのベランダから見た景色なんだけど… これ見て"オレんちの前の流氷"みたいな(笑) ニューヨークの冬なんてさ、 デッキにかかった飛沫が目の前で見る見る凍るくらいの寒さなんだけど 水面が凍らない限り乗ってるんだ。ヨットキチガイは。 でも寒波がひどいと、Manhasset Bay Yacht Clubも、そう。湾全体が全部凍ってしまう。」 |
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川原さんの言う「ヨットキチガイ」というフレーズではないが、 MBO級の多くの船は1961年のハリケーンや1988年の竜巻で壊れてしまった。 そのたびにこのクラスはもう終わりだと言われたが、この優雅な木造ディンギーを愛する人々は ボロボロの船をリストアしては大事に乗ってきた。 Grace Allenも1989年にキールもリブもフロアも無いような#9を手に入れてそれをMalone Boat Building Companyに送り、 大きな費用をかけて『Miss B Haven』として完璧に復活させたのだ。 |
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「向こうのヨットクラブって我々が日本でイメージしてるのとは全然ちがうよ。 ヨットクラブの建物ってお城みたいだったよ。 国際14フッターの世界選手権で行ったロイヤルカナディアンヨットクラブなんて、オンタリオ湖のトロントの対岸に立つ島が全部ヨットクラブ。 どこのクラブでも、メンバーは基本的にはクラブで結婚式をするんだ。 人生の重要な場面にヨットクラブとフリートの仲間達がいる。」 「そのMBODのフリートでは、何かと言うとパーティってことになるんだけど、常に『今度は誰んちでやる?』って感じで相談してる。基本的に皆近所に住んでいて、どこの家も50人くらいのパーティは余裕…」 「…なんだけど、中でも、グレースとは海の上から「あんたの家どこだ?」「あれよ。あの木の陰よ。」 |
![]() <Manhasset Bay Yacht Clubの仲間達とのパーティで> |
「ただクラブの中で日本人は僕一人だった。 日本人と言うかアジア人が僕だけ。 あとはみんな完全に白人世界
だったけど、僕は周りに受け入れられたと思う。 3年目になった時は、それまではゲストという形だったけど、「今年は(フィーを払って)メンバーに入れよ」って言われたけど、でもたまたまその時カミさんが病気になっちゃって、急遽帰国した。まあ勝ち逃げだよな(笑)
うーん、でも今思えばお金払っておけば良かったなと思うよ。一応日本にいるけど会員ってことにしてくれと。 |
| ここで話は川原さんが高校一年生の時に遡る。 |
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<Osyare & Dandy川原 現役当時の雄姿>![]() |
「それで今でも覚えてるのがさ、当時学院のヨット部は大学と同じ場所で練習していたんだけど、ちょうど葉山に移動した時だよ。 六大学戦の始まる前の週の合宿の解散式で当時の大学のキャプテンが 『みんなわかってると思うけど来週からレースだ。気合い入れて・・・な』って。
全く何の事かわからなかった。 『もう絶対大学ではヨットやんない!』と心に決めたね。」 「お前らだって年間6回五分刈りにしろって言われたら半分ぐらいやめちゃうかも知れないよ。」 「はい そうですね」おもわず頷いてしまった。
「僕、結構オシャレな文系の高校生だったの!
「着て行く服もないよ、坊主なんて! |
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その後川原さんは、大学でもヨットを続けるのだが、 大学3年生になる頃には 坊主頭にすることに何の抵抗も感じなくなっていたと言う。 「ハィーンって。電動バリカンでガンガン刈るような男になっちゃってさ」
ちなみに、”坊主刈りで気合”のセレモニーは現在のヨット部にはない。 |
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「まあ、大学でヨットやらないって選択肢もあった。 でもやっぱり、ヨット部ってのは意外と選手以外にも、修理とか、スタッフが結構大事じゃない。 そういう貢献できること、結構いっぱいあるよね。 高校の時は、レースには出てたけど、背は小さいし、力は無いし、大学レベルで楽々乗れるとは全然思ってなかった。
だけど僕が思ったのは『こんなひ弱な男の子でも、レギュラーじゃなくてもスタッフとかで結構活躍できるかな』って。 |
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「高3の時思ったのは、ヨット部の木訥(ボクトツ)なにいちゃんとブランド服着てシャレたところを徘徊している僕とどっちが魅力的だろうって… ヨット部の人って、やっぱり男として、なんかこう、価値がある。 自分が一生懸命やってんだよなあ、って言わなくても、もう見れば全てを物語っている。坊主だし。ホント修業僧だよね(笑) 女の子にもてたいとか、おしゃれしたいとか、全てを捨ててやってるわけだからさあ、 それが、かっこよく見えた。 こっちが本物の男だって。」 |
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"裏方でもいいから"と思っていた川原さんが3年生の時に、全日本が琵琶湖で行われ、その直後キャプテンを任される事になる。 その時には成績もかなり上向きで、秋の新人インカレで川原さんのスナイプチームはダントツの優勝を決める。 総合では日大に負けてしまったが、川原さん個人の成績もかなり良かったという。 |
![]() <1988年 春インカレ 加藤監督と> |
「当時は秋に新人インカレ、春が本戦の関東インカレ、全日本インカレは夏に行われていたんだけど、春の関東インカレは、関東学生最後の大原セールで出た。 決勝の3レースを2-3-2で決めて、ダントツのMVP。
その後の関東スナイプで二番とか三番とかなったけど、全日本は出してもらえなかった。
で、広島の全日本。僕たちは470級4位、スナイプ4位の総合4位という結果になるんだけど… まあ、とにかくどう考えてもね、僕たちの世代は加藤さん (加藤文生氏・元ヨット部監督) の影響は大きいね。加藤さんって僕の親父と同じ年代だしね。 でも本当にいろんな意味で『加藤さんに男にしてもらった』と思っている。そういう人は多いと思う。」 |
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「それともう一人は招待コーチだった小松さん。
あの頃の小松さんはお前らの知ってる小松さんとは全然違うんだよ。
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![]() <1987年 秋インカレ クルー主藤氏と> |
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「小松さんのかもめの水兵さんって知ってる? 小松さんて470の強化選手だった頃、スタートで混んでるところにうまく入って行けなかったんだって。 いまはもう全然小松さんに似合わないけど、当時は引っ込み思案で、人前で物怖じするタイプだったんだって。 で、渋谷のハチ公の前で、公衆の面前でかもめの水兵さんを歌って踊って、それで鍛えたっていう…。」 「とにかく小松さんには、何か圧倒的なパワーがあって、すごく刺激を受けたな。僕だけじゃないと思うよ。」 |
続いて話は社会人になってすぐ、川原さんが14フッターに乗り始めた頃の話へと移る。
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「僕たちの卒業の時はクルーザーの世界は怖かったんだよね。 『クルーザーやるんだったら月光来い』という流れがあったからね。 月光は並木さんがやってて、それで並木さん、結構おっかない人だって話でさ。
月光じゃないクルーザーに行くのはさらに怖くて行けなかった。
そういう事もあって僕は社会人になってから14フッターやり始めた。体もまだ全然動くし、ディンギーやれるうちはやるかって、同期で470のクルーやってた坂部と組んで始めた。 『International 14』 は1920年にイギリスで生まれた14feetの長さのダブルハンドディンギーである。 |
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「今の49erのデザインの元になった船だよ。470やスナイプのような One Designではなく、基本的な部分の寸法は決められているが、それ以外は自由、という「限定クラス」という艇種なんだ。だからどんどん艤装が進化する。これが面白い」 と川原さんは解説する。 世界で最初にトラビーズハーネスを考え出したのも14footer乗りだ。 ワイヤーで体を吊って艇の外へ乗り出して操船する という荒っぽいアイデアに1937年当時の人々は驚嘆したという。又、最初にブームバングをつけたのもこのクラスだ。
今大学ヨットがインカレで採用している470もスナイプもセールの面積が決まっている。 詳細は是非 『国際14フッターの歩み』 という『Japan International 14Class Association』のページを見ていただきたい。
川原先輩は新しいもの好きでスピード狂だったのかもしれない。 |
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当時は艇も中古の物を現地渡しで買っていたと言う。 「イギリスの有名選手は二年に一回新艇を買うんだよ。 で、こういうのを僕たちに半値くらいで譲るわけよ。それを僕たちは買う事しかできなかったね。 それが日本にとっては最高の、一番新しい艤装の艇だったから。その後新艇を買う人もちらほら出てきたけどね。そういう人たちは、初めてマスト立てて、セール張って、翌日がレースなわけよ。勝てる訳ないよね。まあ、中古艇買っても似たようなものだけど。」
そのような状況もあり、当時の世界選手権では到底勝てなかったと言う。 「1回だけ144杯の個人戦で1上3番ってのがあった。その時はホント最高だったよ。足が震えた。」
川原さんは22歳で社会人になってから26歳まで5年間14フッターで活動して、世界選手権にも2回出場している。
その後 結婚を機に活躍の場はDABOHAZE、クルーザーへと移る。 |
![]() <1991年 世界選手権> |
![]() <『DABOHAZE SUPER6』のデッドヒート 左はコンテッサ> |
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「なんか ヨットに乗ってばっかいるみたいだろ。 実際、入社3年目(24歳 1991年)には最初の世界選手権に行ったし、93年に二度目の世界選手権に出た時なんか、3週間会社休んだよ。 でも、僕は仕事も本気で死ぬほど頑張ったんだよ ”ヨットは速いけど、仕事は遅い”じゃ、誰も応援してくれないだろ
住友商事に入って3年目には世界選手権も行ったけど、入社2年目でウラジオストック近くの港町まで行って船から鉄道貨車に自動車を載せ代える手配もした。
内定後に、配属を決める面接があって、「何が好きか」って聞かれた時、ヨットしか思い浮かばなかったから「海です」って言っちゃったせいで、港から港へ出張で飛び回る仕事になって残業が月120時間超えたこともある。 川原さんは96年に東ヨーロッパから黒海・カスピ海・ロシアを抜けて中央アジアまで、自分の足で港・フェリーなど輸送拠点を調査した。 |
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「イランとトルクメニスタンを繋ぐ鉄道の貨物基地とか 中国とカザフスタンの国境駅にはどんな積み替え設備があるかとか ペルシャ湾からタシケントへ行くトラックの大きさは何がどのくらい載るか、道路はどんな状況だとか アゾフ海とカスピ海をつなぐ運河の幅がどのくらいあって、どのくらいの船なら通れるとか」
「そんなの誰も知らなかったからね。誰か確かめに行けってことになって、じゃあ川原って。
「でも・・・」と川原さんは言う |
![]() <日本人が誰も行かないような所を二ヶ月間歩いた> |
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「だから、世界選手権で仕事を長期間休んだ時、仲間に申し訳ないとは思ったけど会社に対して遠慮はしなかった 『僕は新しい企業人像を提案しているんだ』と思って頑張っていたんだ。 |
<91年世界選手権 同期の坂部 匡氏と>
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「とにかく社会人になってヨットやるってのは難しいよな。 どういうことか?例えば社会人になって、スナイプを買ってやるじゃない? クルーとの日程調整もあるわな。資金的な問題もあるわな。それに、フツーの社会人って言うのは、出張もあるし、休日出勤もある。 でも、確実なのは、やるもやめるも全て個人の判断になるということ。スナイプでやるのか、他のクラスでやるのか。どのくらい力を入れるのか。どのくらい金をかけるのか、全部個人の判断。そうでしょ。そこが学生の4年間とは違う。
結婚して、子供が出来れば更に難しくなるよね。 社会人で競技を続ける事の難しさ。学生との違い。 それを経験したからこそ、第一線で活躍している人達には本当に頑張って欲しいと思うと言う。 ヨットが好きでも、やりたくても出来ない、或いはやっても勝てない、という人たちの『夢』を、ウチの学生や原田や石橋達、第一線で頑張ってる人達に託して、応援している、というところがあると思う。」 |
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「僕は24才で14フッターで世界選手権へ行って、日本では1番だったけど世界で144艇中66番。 99年のJ24の日本選手権で60杯中22位。そんな下手糞なの…僕って。 会社員で3年目、5年目になって、もっと仕事しなくちゃいけない。土日できるかどうかわからない。お金だって毎年何十万円も使ってセールを買ったりできるかどうかわからない。合コンもしたいし車も欲しい。スキーやゴルフの付き合いもある。全部が出来る訳ではない。自分で選択しなくちゃならない中で何かを捨てることになる。 「やったって勝てないからもうやめようか」と思うわけだよな。
そこでみんなまた究極の選択をするんだよね。これも学生ヨットには無いお話だよね。
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| お気に入りの小物の前で。 舵輪は結婚の時に加藤監督より 頂いたもの。 右のハーフモデルはMBOD。帰国の時に艇のオーナーより贈られたもの。
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「早稲田ヨットのOBってみんなすごいよね。 自分の納得感というか、自分の思いを遂げることに、よくみんなここまで一生懸命できるよね。”無償”どころか”持ち出し”でしょ。 武村さん(武村洋一氏 JSAF理事長)も、学生時代からずっとお世話になってて、”頑固親父”といえばそうなんだけどさ、まあみなさん愛してるわな、ヨット部を。並木会長も、舟岡さんも、土肥さんや石合さん、加藤んもそうだけどさ。この人達をしてここまで一生懸命にさせる、ヨット部ってやつはなんてすげえものだろう。みんなただ単によくやってるとかじゃなくて、なんらかのこだわりを持つ、ものすごいパワーをもってやってらっしゃる。
僕はその人達の息子の世代なんだよね。
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| 文責:3年HP係 鈴木恵詞 |
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