早稲田大学ヨット部


■川原 康嗣■

東京都 早稲田大学高等学院卒業
1989年 早稲田大学商学部卒業
1989〜95年 学院ヨット部監督
1989年 International 14footer全日本選手権優勝(クルーは同期の坂部 匡氏)
1991年、1993年 International 14footer世界選手権出場 (クルーは同期の坂部 匡氏)
1995年 『DABOHAZE』(オーナー
土肥丈志氏 )のクルーとして鳥羽レース出場
1999年 『DABOHAZEJr.』でJ24全日本22位
2000年 8月NEW YORK赴任
2003年 MBODフリートの『Miss B Haven』のクルー、後にヘルムスマンになる
2004年 『Miss B Haven』サマーレガッタ優勝・シーズン優勝
2008年1月 『Pucapuka』(Beneteau Oceanis Clipper 331) 進水 共同オーナー(住友商事ヨット部の仲間と)

「中学のころは走っても遅い。野球 打てない。高校までギターひいててバンドもやってた。
渋谷・原宿を平日からうろうろ。夜はブランド服着て六本木。女の子大好き。(笑)
自分で言っちゃうけどオシャレな文系の子だった。

ヨット部と海が僕を男にしてくれた。

会社を3週間休んで世界選手権に出た時、仲間に申し訳ないとは思ったけど、会社に対して遠慮だけはしなかった。
「僕は新しい企業人像を提案してるんだ」って気概で頑張ってた。
仕事もすごい頑張ったよ。「ヨットは速いけど、仕事は遅い。」じゃ誰も応援してくれないからね。


「川原さん、すいません、
ちょっと待って下さい(汗)テープ回します!」
と僕は思わず話をさえぎってしまった。
次々と面白い話が飛び出して来て、
気がついたらインタビューが始まっていたからだ(笑)

「まあ、パッと晩御飯食べて、話は僕の自宅に行ってからゆっくりしよう」
そう最初に言って下さった川原さんとお店に入ってから40分程経った頃だっただろうか。
(後で、そのテープの音声は店のお兄さんの怒声と客の声やら雑音だらけで僕はテープから川原さんの声を書き起こすのに死ぬほど苦労することになる(笑))

高校の時は文系のおシャレでオンナ好きの高校生だったという話
大学ヨット部のボウズ頭の部員を初めて見た時の衝撃
NY転勤時に出会った大富豪の話・・・

川原さんには自分が高等学院ヨット部の時からお世話になっているが、川原さんのお話は本当に面白い物が多い。聞いている人が思わず引き付けられてしまう。

「NYに赴任して3年目、ヨットに乗りたくなって、いろんな人にツテを尋ねた。
たまたまカミさんの英語の先生の紹介で、若いクルーを探してる人がいるからそれに乗ったらどうだって話が来て・・・その船の人たちは本当にいい人たちだった。」

Manhasset Bay Yacht Clubは、1892年に結成され、1902年からNYのPort Washingtonにクラブハウスを置いている。
川原さんがクルーになったのは、そこにフリートがあるMBOD(Manhasset Bay One Design)という船だ。Olin Stephensが1928年に1号艇を設計、1930年代から1950年代にかけて最盛期だった優雅な、木製、18ftのクラシック・スループである。

 「 僕が乗ったのはセールNO.9、船の名『Miss B Haven』。オーナーはAllen & Company って、ニューヨークの歴史のある投資銀行の会長の奥さん!僕以外はみんな50〜70才台。とにかくそのヨットクラブは優雅な感じの人たちばっかりだったよ。」

「彼女(その船のオーナー)グレースって言うんだけど7月4日独立記念日に、
『毎年船でパーティーをやっているから家族で来てくれるか』
っていうから、それはもう喜んで参加した。」

その船ってのが、木造の優雅なクラシックパワーボート。
100フィート(40メートル)ぐらいあって100人くらい乗れるのかな。
よくアメリカズカップとかの観覧艇であるようなのだよ。
その船はフロリダで営業運航してるんだけど
7月4日はグレースの為にわざわざNYに来るんだよ!
んで、昼からみんなで船上パーティー。
マンハッタンまで走っていって、昼は自由の女神の周りとかにいて、夜はBrooklyn Bridge の近くでで独立記念日の花火を見る。
世界中の金持ちが集まってきてるんだけど、許可された海面の中で、グレースの船が一番良い場所 なんだよね。彼女はNYの港湾関係の大きなボランティア団体の会長だったから、そんなこともできたのかな。そんな独立記念日を楽しませてもらったな。」


独立記念日にグレース・アレン主催の船上パーティーで
川原さんは2002年から2004年まで3年間、Manhasset Bay Yacht Clubで彼女の船『Miss B Haven』のヘルムスマンとして活動し、
2004年にはシーズン優勝もしている。
「この冬は寒さが厳しくて、僕のマンションのベランダから見た景色なんだけど…
これ見て"オレんちの前の流氷"みたいな(笑)
ニューヨークの冬なんてさ、 デッキにかかった飛沫が目の前で見る見る凍るくらいの寒さなんだけど
水面が凍らない限り乗ってるんだ。ヨットキチガイは。
でも寒波がひどいと、Manhasset Bay Yacht Clubも、そう。湾全体が全部凍ってしまう。」
川原さんの言う「ヨットキチガイ」というフレーズではないが、
MBO級の多くの船は1961年のハリケーンや1988年の竜巻で壊れてしまった。
そのたびにこのクラスはもう終わりだと言われたが、この優雅な木造ディンギーを愛する人々は
ボロボロの船をリストアしては大事に乗ってきた。
Grace Allenも1989年にキールもリブもフロアも無いような#9を手に入れてそれをMalone Boat Building Companyに送り、
大きな費用をかけて『Miss B Haven』として完璧に復活させたのだ。
<MBO級レース風景>
左から二艇目#9『Miss B Haven』

<右上:再建造中の『Miss B Haven』>
「船は歴史もんで、50歳台の人が中心だったけど、テンションはなかなか高くて、だから僕もこのフリートのレベルをあげるために頑張ろうと。

2003年、2004年は結構毎週のようにやってた。それで、2004年サマーレガッタで優勝。
毎週・毎週の成績の積み重ねで2004年のシーズンも優勝。
「ヤスがきてくれてこんなに、フリートが盛り上がった。よかった。いいやつだ。」
って言ってもらえた。


「向こうのヨットクラブって我々が日本でイメージしてるのとは全然ちがうよ。
ヨットクラブの建物ってお城みたいだったよ。
国際14フッターの世界選手権で行ったロイヤルカナディアンヨットクラブなんて、オンタリオ湖のトロントの対岸に立つ島が全部ヨットクラブ。
どこのクラブでも、メンバーは基本的にはクラブで結婚式をするんだ。
人生の重要な場面にヨットクラブとフリートの仲間達がいる。」

「そのMBODのフリートでは、何かと言うとパーティってことになるんだけど、常に『今度は誰んちでやる?』って感じで相談してる。基本的に皆近所に住んでいて、どこの家も50人くらいのパーティは余裕…」

「…なんだけど、中でも、グレースとは海の上から「あんたの家どこだ?」「あれよ。あの木の陰よ。」
…そこには森の中にお城みたいなものが見えている…(笑)住所に通りの名前はあるけど番地が無いんだよね…(。。。。。)」



<Manhasset Bay Yacht Clubの仲間達とのパーティで>
「ただクラブの中で日本人は僕一人だった。
日本人と言うかアジア人が僕だけ。
あとはみんな完全に白人世界

だったけど、僕は周りに受け入れられたと思う。
黒髪の小さな娘がいたし、カミさんも当時37にしては若く見えたしね。
そんなんとヨットのウデで皆に受け入れてもらえて仲良くなった。皆にかわいがってもらえた。

3年目になった時は、それまではゲストという形だったけど、「今年は(フィーを払って)メンバーに入れよ」って言われたけど、でもたまたまその時カミさんが病気になっちゃって、急遽帰国した。まあ勝ち逃げだよな(笑)

うーん、でも今思えばお金払っておけば良かったなと思うよ。一応日本にいるけど会員ってことにしてくれと。
ある程度払えば会員権を給付しますみたいなのすればよかったなと思ってる。」


ここで話は川原さんが高校一年生の時に遡る。
「当時はね、頭はまあまあ良かったんだけど運動ははっきり言って苦手だった。
オール5なんだけど体育だけ3。走るの遅い。野球 打てない。
だけど不思議だったのは、ダメなんだけど嫌いじゃなかった。だから高校でも何か運動部に入りたかった。」

川原さんは自分と同じ早稲田大学高等学院の出身である。
学院を選んだのも、都立高校だと大学受験の為に途中でクラブ活動が出来なくなってしまうと思ったからだと言う。

「高校生活に受験勉強が入ってくると、また勉強の人生になっちゃうじゃない。
それよりは学院に行って、クラブを3年間しながら、早稲田大学へ行く…
3年間通して出来る良い運動を何かやりたいなって。
僕みたいなヘナチョコでも何か出来るクラブがあれば、大学とくっついているからクラブも続けられると決まってるしさ。
それで高校から始めても、大学でもレギュラーを張れるスポーツってことで探したら、日焼けしたさわやかなヨット部の先輩達に出会った。

ヨットを始めると国体やインストラクターのバイト等の場で友達もたくさん出来る。
そして何より、それまで男の子っぽくなかった自分が男の子らしく、たくましくなれたと言う。それほどにヨットは楽しかった。

<Osyare & Dandy川原 現役当時の雄姿>

「それで今でも覚えてるのがさ、当時学院のヨット部は大学と同じ場所で練習していたんだけど、ちょうど葉山に移動した時だよ。
六大学戦の始まる前の週の合宿の解散式で当時の大学のキャプテンが
『みんなわかってると思うけど来週からレースだ。気合い入れて・・・な』って。

全く何の事かわからなかった。
でもその後わかったんだよ。
次の集合日までに全員頭刈って来いって事だったんだよ。(笑)

『もう絶対大学ではヨットやんない!』と心に決めたね。」

「お前らだって年間6回五分刈りにしろって言われたら半分ぐらいやめちゃうかも知れないよ。」
「はい そうですね」おもわず頷いてしまった。

「僕、結構オシャレな文系の高校生だったの!
ギターもひいててバンドもやってた。
自分で自分が信じられないくらい、好きな女の子が何人もいて…渋谷・原宿を平日からうろうろ。夜はブランド服着て六本木。」

「着て行く服もないよ、坊主なんて!
今だったらお洒落でいいのかもしれないけど、坊主はありえないよ、当時は。登校拒否しちゃうよ。
坊主になって自由が丘の街を歩けるかって!!!」

その後川原さんは、大学でもヨットを続けるのだが、
大学3年生になる頃には 坊主頭にすることに何の抵抗も感じなくなっていたと言う。

「ハィーンって。電動バリカンでガンガン刈るような男になっちゃってさ」

ちなみに、”坊主刈りで気合”のセレモニーは現在のヨット部にはない
新入生のみなさんには安心していただきたい。
現在のヨット部員は全員 オシャレでDANDYである。(願望80%)

「まあ、大学でヨットやらないって選択肢もあった。
でもやっぱり、ヨット部ってのは意外と選手以外にも、修理とか、スタッフが結構大事じゃない。
そういう貢献できること、結構いっぱいあるよね。
高校の時は、レースには出てたけど、背は小さいし、力は無いし、大学レベルで楽々乗れるとは全然思ってなかった。

だけど僕が思ったのは『こんなひ弱な男の子でも、レギュラーじゃなくてもスタッフとかで結構活躍できるかな』って。
『ワセダの体育会』って言うところで、エンジの旗の下で何かできる、なんてことはね、これはまたとないチャンスだな。
というように思って選手になれなくてもいいからマネージャーとか、裏方でもいいからヨット部のために何かやれないか、って気持ちで大学ヨット部に入った。」



「高3の時思ったのは、ヨット部の木訥(ボクトツ)なにいちゃんとブランド服着てシャレたところを徘徊している僕とどっちが魅力的だろうって…
ヨット部の人って、やっぱり男として、なんかこう、価値がある。
自分が一生懸命やってんだよなあ、って言わなくても、もう見れば全てを物語っている。坊主だし。ホント修業僧だよね(笑)
女の子にもてたいとか、おしゃれしたいとか、全てを捨ててやってるわけだからさあ、
それが、かっこよく見えた。
こっちが本物の男だって。」

"裏方でもいいから"と思っていた川原さんが3年生の時に、全日本が琵琶湖で行われ、その直後キャプテンを任される事になる。
その時には成績もかなり上向きで、秋の新人インカレで川原さんのスナイプチームはダントツの優勝を決める。
総合では日大に負けてしまったが、川原さん個人の成績もかなり良かったという。


<1988年 春インカレ 加藤監督と>
「当時は秋に新人インカレ、春が本戦の関東インカレ、全日本インカレは夏に行われていたんだけど、春の関東インカレは、関東学生最後の大原セールで出た。
決勝の3レースを2-3-2で決めて、ダントツのMVP。

その後の関東スナイプで二番とか三番とかなったけど、全日本は出してもらえなかった。
当時はやっぱり団体戦中心で、個人の大会には基本的に出してもらえなかった。

で、広島の全日本。僕たちは470級4位、スナイプ4位の総合4位という結果になるんだけど…
まったくの無風と、強い潮に悩まされてね。

まあ、とにかくどう考えてもね、僕たちの世代は加藤さん (加藤文生氏・元ヨット部監督) の影響は大きいね。
加藤さんって僕の親父と同じ年代だしね。

でも本当にいろんな意味で『加藤さんに男にしてもらった』と思っている。そういう人は多いと思う。」


「それともう一人は招待コーチだった小松さん。

あの頃の小松さんはお前らの知ってる小松さんとは全然違うんだよ。
小松さんが現役で470乗ってた頃、僕が高校生で、モスクワオリンピックの選手だったんだけど、ボイコットになったんだよね。
だからその頃の小松さんは特に燃えててさ、三戸浜で練習してて北の風13m/sぐらい吹いてる中で
大学生がそろそろ上がろうかって状況の時に、佐島の方からきらりと光るものが見えて来て、
その頃の大学生が

『鳥だ!ヒコーキだ!いや!小松さんだ!』 (笑)」

「小松さんが470でスピン上げてブッ飛ばして来るわけ。」

「怖かったな〜
『吹いて来たから上がろう』とでも言おうものなら『ばかやろう!!いい練習できるじゃないか!』って言われて。
んで沈しちゃう…なかなか起きない。吹いてるからね。
当時のスナイプなんて重くて、2人乗っても3人乗っても船が起きない。

そうすると今度はレスキューにいる小松さんが大声で
『何やってるんだ〜!ばか!』
で小松さんがかっぱのまま…ドライなんかじゃなくて、普通のかっぱに長靴でセンターに飛び乗って一回グワー!
と、やるだけでほぼ回復(笑)

すげーなーって思ったよ。
陸に帰っても三戸浜は大西が吹くと大変なわけだ。
船上げるだけでも、もたもたしちゃうんだけど、小松さんが船あげに加わると、あっさり上がるんだよな。」

川原さんは沈をして力尽きると、小松さんに力任せに海から引っ張り上げられて
「何やってるんだ、おまえらー。それでも男の子か!」
と、怒られるのだが、その時の小松さんの力強さは今でも覚えていると言う。


<1987年 秋インカレ クルー主藤氏と>

「小松さんのかもめの水兵さんって知ってる?
小松さんて470の強化選手だった頃、スタートで混んでるところにうまく入って行けなかったんだって。
いまはもう全然小松さんに似合わないけど、当時は引っ込み思案で、人前で物怖じするタイプだったんだって。
で、渋谷のハチ公の前で、公衆の面前でかもめの水兵さんを歌って踊って、それで鍛えたっていう…。」

「とにかく小松さんには、何か圧倒的なパワーがあって、すごく刺激を受けたな。僕だけじゃないと思うよ。」

続いて話は社会人になってすぐ、川原さんが14フッターに乗り始めた頃の話へと移る。

「僕たちの卒業の時はクルーザーの世界は怖かったんだよね。
『クルーザーやるんだったら月光来い』という流れがあったからね。
月光は並木さんがやってて、それで並木さん、結構おっかない人だって話でさ。

月光じゃないクルーザーに行くのはさらに怖くて行けなかった。
『月光来ねえのかよ』って言われちゃうから(笑)

そういう事もあって僕は社会人になってから14フッターやり始めた。体もまだ全然動くし、ディンギーやれるうちはやるかって、同期で470のクルーやってた坂部と組んで始めた。
で、最初の全日本で勝っちゃったんだよ。」

『International 14』 は1920年にイギリスで生まれた14feetの長さのダブルハンドディンギーである。


「今の49erのデザインの元になった船だよ。470やスナイプのような One Designではなく、基本的な部分の寸法は決められているが、それ以外は自由、という「限定クラス」という艇種なんだ。だからどんどん艤装が進化する。これが面白い」
と川原さんは解説する。
世界で最初にトラビーズハーネスを考え出したのも14footer乗りだ。
ワイヤーで体を吊って艇の外へ乗り出して操船する という荒っぽいアイデアに1937年当時の人々は驚嘆したという。又、最初にブームバングをつけたのもこのクラスだ。

今大学ヨットがインカレで採用している470もスナイプもセールの面積が決まっている。
しかし、14footerはジブ+メインで18.58u以内ならどういう配分でもよく、スピンの面積など無制限。
という自由な設計の許される面白い船である。

詳細は是非 『国際14フッターの歩み』 という『Japan International 14Class Association』のページを見ていただきたい。

川原先輩は新しいもの好きでスピード狂だったのかもしれない。
もと高等学院生らしいという気がする。
川原さんは最初の頃は14フッターを佐島マリーナ近くの浜や江ノ島に置いて練習し、全日本等の大会に出ながら実績を積む。
そして今から16年前の91年に初めての世界選手権にイギリスへ行く。


「面白かったよ。僕たち半被を持ってったんだよ。
国際14フッターだから、『国際十四足』って書いて、後ろには風神が描いてあって(笑)
結構外人には受けるよ。世界選手権で。
あと、イギリスにさ、フィッシュアンドチップスってあるだろ?あれが本当にまっずくってさ(笑)
毎日艇が壊れたりとかしてハーバーで遅くまで直すんだけどさ、これしか食うモンがないんだよぉ。
何日もこれ食ったな〜。」
当時は艇も中古の物を現地渡しで買っていたと言う。
「イギリスの有名選手は二年に一回新艇を買うんだよ。
で、こういうのを僕たちに半値くらいで譲るわけよ。それを僕たちは買う事しかできなかったね。
それが日本にとっては最高の、一番新しい艤装の艇だったから。その後新艇を買う人もちらほら出てきたけどね。そういう人たちは、初めてマスト立てて、セール張って、翌日がレースなわけよ。勝てる訳ないよね。まあ、中古艇買っても似たようなものだけど。」

そのような状況もあり、当時の世界選手権では到底勝てなかったと言う。
しかし川原さんは止めなかった。

「1回だけ144杯の個人戦で1上3番ってのがあった。その時はホント最高だったよ。足が震えた。」

川原さんは22歳で社会人になってから26歳まで5年間14フッターで活動して、世界選手権にも2回出場している。

その後 結婚を機に活躍の場はDABOHAZE、クルーザーへと移る。


<1991年 世界選手権>

<『DABOHAZE SUPER6』のデッドヒート 左はコンテッサ>
「DABOHAZEはOB土肥丈志氏がオーナーのチーム。
1994年 新艇の『DABOHAZE SUPER6』がシーボニアマリーナで進水した。
それからは土肥さんが会長をしておられた『東京ヨットクラブ』のクラブレースを中心に、STC (Sail Training Club in 佐島沖)、NORC関東選手権、ジャパンカップなどに積極的に参戦したよ。
東京湾から相模湾に数十回も廻航したおかげで、航海術を身につけることができた。
鳥羽レースにも出場1回。
1995年は息子が生れた年だったけど、僕は年間95日以上海に出ていた。毎月土日8回練習した。
土肥さんには死ぬほどお世話になったし、大型艇の動かし方、夜間航海など沢山教えてもらった。

その後1996年に土肥さんが引退表明。
土肥さんは『BENETEAU 50 (DABOHAZE ULTRA 7)』を買ったのだけど、相模湾には置けないので 長崎のハウステンボスに置くっていうことで、我々クルーには、「中古のJ24を買ってやるからレースに出ろ」と言ってくれた。
『DABOHAZE ULTRA 7』がアリランレースや沖縄レースに出るときは呼んでやるから」ってね。

それから J24 (DABOHAZE Jr.)の活動が始まった。
成績は振るわず、1999年の全日本選手権でも22位。スキッパーを降りるべきか相当悩んだ。 その後仕事での転機が訪れ、2000年から仕事でニューヨークへ派遣されて、僕は、MBODに乗ることになる・・・」


「なんか ヨットに乗ってばっかいるみたいだろ。
実際、入社3年目(24歳 1991年)には最初の世界選手権に行ったし、93年に二度目の世界選手権に出た時なんか、3週間会社休んだよ。
でも、僕は仕事も本気で死ぬほど頑張ったんだよ
”ヨットは速いけど、仕事は遅い”じゃ、誰も応援してくれないだろ

住友商事に入って3年目には世界選手権も行ったけど、入社2年目でウラジオストック近くの港町まで行って船から鉄道貨車に自動車を載せ代える手配もした。
当時、専用貨車を使って、鉄道でロシア極東からモスクワへ自動車を運ぶってのは画期的だった。

内定後に、配属を決める面接があって、「何が好きか」って聞かれた時、ヨットしか思い浮かばなかったから「海です」って言っちゃったせいで、港から港へ出張で飛び回る仕事になって残業が月120時間超えたこともある。
それでも、週末はヨットに乗った。

川原さんは96年に東ヨーロッパから黒海・カスピ海・ロシアを抜けて中央アジアまで、自分の足で港・フェリーなど輸送拠点を調査した。

「イランとトルクメニスタンを繋ぐ鉄道の貨物基地とか
中国とカザフスタンの国境駅にはどんな積み替え設備があるかとか
ペルシャ湾からタシケントへ行くトラックの大きさは何がどのくらい載るか、道路はどんな状況だとか
アゾフ海とカスピ海をつなぐ運河の幅がどのくらいあって、どのくらいの船なら通れるとか」

「そんなの誰も知らなかったからね。誰か確かめに行けってことになって、じゃあ川原って。
当時は、『日本で一番 中央アジアの輸送事情に詳しい男』になったよ(笑)
船 トラック 鉄道 何を送る時、何と何を組み合わせてどういうルートで送るか。
地球上の細かい”陸・海・空の道”が頭に入ると、物を運ぶのをアレンジする仕事って面白くなる。」

「でも・・・」と川原さんは言う
「どんなに仕事が面白くても 仕事が全て になるのは嫌なんだ」


<日本人が誰も行かないような所を二ヶ月間歩いた>
「だから、世界選手権で仕事を長期間休んだ時、仲間に申し訳ないとは思ったけど会社に対して遠慮はしなかった
『僕は新しい企業人像を提案しているんだ』と思って頑張っていたんだ。

<91年世界選手権 同期の坂部 匡氏と>
「とにかく社会人になってヨットやるってのは難しいよな。
どういうことか?例えば社会人になって、スナイプを買ってやるじゃない?
クルーとの日程調整もあるわな。資金的な問題もあるわな。それに、フツーの社会人って言うのは、出張もあるし、休日出勤もある。

でも、確実なのは、やるもやめるも全て個人の判断になるということ。スナイプでやるのか、他のクラスでやるのか。どのくらい力を入れるのか。どのくらい金をかけるのか、全部個人の判断。そうでしょ。そこが学生の4年間とは違う。

結婚して、子供が出来れば更に難しくなるよね。
社会人になってその中でどのくらいヨットに喰らいついてヨットのレースをやるかというのは、これから社会人になってから悩む事だよ。僕は坂部っていうパートナーと5年間頑張れて幸せだった。

社会人で競技を続ける事の難しさ。学生との違い。
それを経験したからこそ、第一線で活躍している人達には本当に頑張って欲しいと思うと言う。

ヨットが好きでも、やりたくても出来ない、或いはやっても勝てない、という人たちの『夢』を、ウチの学生や原田や石橋達、第一線で頑張ってる人達に託して、応援している、というところがあると思う。


「僕は24才で14フッターで世界選手権へ行って、日本では1番だったけど世界で144艇中66番。
99年のJ24の日本選手権で60杯中22位。そんな下手糞なの…僕って。

会社員で3年目、5年目になって、もっと仕事しなくちゃいけない。土日できるかどうかわからない。お金だって毎年何十万円も使ってセールを買ったりできるかどうかわからない。合コンもしたいし車も欲しい。スキーやゴルフの付き合いもある。全部が出来る訳ではない。自分で選択しなくちゃならない中で何かを捨てることになる。

「やったって勝てないからもうやめようか」と思うわけだよな。

そこでみんなまた究極の選択をするんだよね。これも学生ヨットには無いお話だよね。
要するにそこでね、下手な人はヨットをやめなきゃならないの?という疑問が出て来るわけよ。
違うでしょ。下手でもヨットやったっていいでしょ。
だれもが一番になれるわけじゃないし、大学の時からオリンピック代表がかかるレースにでる原田みたいなのもいるし、レギュラーになれない人もいる。勝てないなら やる意味ないのかっていうと、やる意味あるんだよ。
得られるものって、勝利だけじゃない。
僕はほんとにヨットに感謝してるんだ。ヨットというスポーツに出会ってよかったと思っている。 だから、勝てないからって悩んでるやつがもし、いるとすれば、エールを送りたいんだ。
そして、今の現役部員もできれば、社会人になった後も続けて欲しいと思うんだ。」


お気に入りの小物の前で。
舵輪は結婚の時に加藤監督より 頂いたもの。
右のハーフモデルはMBOD。帰国の時に艇のオーナーより贈られたもの。

「早稲田ヨットのOBってみんなすごいよね。
自分の納得感というか、自分の思いを遂げることに、よくみんなここまで一生懸命できるよね。”無償”どころか”持ち出し”でしょ。
武村さん(武村洋一氏 JSAF理事長)も、学生時代からずっとお世話になってて、”頑固親父”といえばそうなんだけどさ、まあみなさん愛してるわな、ヨット部を。並木会長も、舟岡さんも、土肥さんや石合さん、加藤んもそうだけどさ。この人達をしてここまで一生懸命にさせる、ヨット部ってやつはなんてすげえものだろう。みんなただ単によくやってるとかじゃなくて、なんらかのこだわりを持つ、ものすごいパワーをもってやってらっしゃる。

僕はその人達の息子の世代なんだよね。
あそこまで早稲田のヨット部にこだわれるかどうかは別として、及ばずながらヨット部の為に生きていこうと思ってるよ。ちょっと大げさな言い方だけど。
出来ることしか出来ないから、無理はしないけどね。
だから自分に出来ることとしてやっぱり僕は学生たちに教える、自分のためにもね。
お前らみたいな若い人達と触れる時、テレビの話題なんか全然ついていけないけど、ヨットやってるヤツだったらだいたい話は通じるし、教えることでこっちもイマドキの高校生大学生っていうものを教えてもらうわけでしょう。
教えるってことは教えられるってことだからね。
僕にとっては学院や大学生教えに行くのはとっても自分のためにもなるんだよね」


最後にインタビューの後日川原氏から送っていただいた「現役へのメッセージ」を載せたい。



現役のみんなへ
自分は、「早稲田のヨット部にオトコにしてもらった」と言う思いがとても強いです。
だからその感謝の思いが、後輩に向くわけです。
学校のクラブの良いところは、先輩から頂いた色々なありがたい思いを、その先輩に返すのではなく、後輩に 伝えていくところです。それが先輩にお返しすることにもなるのだと思います。
だから僕にとっては、君らがいてくれて、頑張ってくれているだけでまずはハッピー。
「応援できる人がいる」ことでとても幸せです。ありがとう。

あんまり先輩めいたことは言いたくないけど、あえて言うなら、「人生200%」かな。
男の子なら(女の子でも)、忙しいとか、無理だとか言う前に、自分としてできることを、よく考えて、全知全能を使って、365日24時間、頑張ってみようよ。
今ヨットで日本一狙ってるんだから、200%頑張ろうよ。
100%で、一人前の人生と思ったら大間違い。やってるヤツはやってます。
人の2倍、3倍のこと、出来ます。それでやっと人の前を走れるんじゃないかな。
そのパワーを出して欲しいんだよね。
絶対後悔しないよ。
「何をやったか」ではなく「何を どれだけ やったか」
その自分のアクションを数え、後になってちゃんと語れるような学生時代を送ろうよ。
本気でやんなきゃダメだよ。

あと、これまでと同じじゃダメ。何か、小さなことでもいいから、「新機軸」みたいなこと、やるとみんなやる気出るんじゃないかな。がんばってください。これからもずっと応援しています。。



文責:3年HP係 鈴木恵詞




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