早稲田大学ヨット部


■杉井 謙治■

大分県 県立中津南高等学校卒業
1969年 早稲田大学政治経済学部政治学科入学
1973年 『稲龍』で学生界初の日本一周を果たす
1974年〜77年 大型艇『稲龍』コーチ拝命 以後体育実技大型艇支援
1977年 卒業
1979年 全日本インカレ応援の為、仙台松島へ稲龍廻航 復路艇長
1980年 全日本インカレ応援の為 西ノ宮へ稲龍廻航 往路艇長
1984年 (株)内野工務店入社
1992年 日東鉄工(株)入社
1997年  スーパーサンバード、石合OB、大矢木OB、平戸OBと共同オーナーとなる。
以後8年間、クラブレース、東京湾、相模湾でクルージングを楽しむ。
2002年〜2004年 東京ヨットクラブ安全通信委員長
2009年〜 OB会
早稲田ヨットクラブ 事務局長

「チャンスを捕まえるための、それなりの経験、
稲龍での初の鳥羽レース参加、沖縄からの回航、私なりの夢の実現の為に、
”できるように積み上げていった”、という所はある。」

「だからね、石川先輩の言葉を受けて、それは不安はあったけど、
『とにかくやりましょう!』、と。」

「『さあ、オマエはどうする』と、
迫られたその場で、考えさせてくれ とは、僕は、言わなかったね。」


杉井謙治氏

今の現役部員にとって、最も身近に感じる先輩のお一人と思う。
レースになると『稲魂』で応援に駆けつけて下さり、部の行事ではよく司会進行を務めてくださっている。
今回インタビューさせてもらった自分も、高校2年生時に初めて『スーパーサンバード』石合OB、大矢木OB、平戸OB、杉井OBの共同所有)に乗せて戴いてから数えて、実に6年間もお世話になっている。
会社の応接室に通していただくと、開口一番

「娘はぜんぜんやったことがないんで、足手まといになることもあるかと思いますが、よろしくお願いします。」

はにかんだような笑顔でおっしゃった。
何を隠そう、杉井氏の娘さんは現在、早稲田大学ヨット部の新入部員である。

「一浪、一年間は北九州の小倉のイトコの所に居候して浪人時代を過ごしました。
我々が入った時の混乱した時代の象徴はね、東京大学が唯一入学試験がなかった年なんだ。昭和44年。その騒乱の写真が卒業アルバムに載るくらいの時代だった。

で、大学に入ったはいいけれど、右も左もわからない。
高校時代に剣道をやっていたんですが、進学校ということで、担任の教師に無理やりやめさせられてね。それが非常に心の隅に残っていたので、大学に入ったら剣道部に入ろうと思ってた。
ところが、体育館へ行ったんだが、音はするけど、どこが入り口か わからない(笑)
うろうろしてるうち、シラバスを読んだら、なんだか『ヨット部』っていうのがあるらしい。

『ヨット、なんか面白そうだな』いうことで・・・」

「当時のマネージャー、大矢木 一さんという方でね、「葉山で練習してるから、いらっしゃい」と言われて行ったのが 6月。」

そんな杉井氏は入部してすぐに運命的な出会いをする。

「葉山の合宿所に行ってすぐの時かなぁ。
ちょうど『稲龍』が39年に進水して、43年の秋からエンジンを取り替えたり、かなり大改装した後に、横浜の岡本造船から葉山に回航してきて、沖に浮かんでた。
先輩に『あれはどこの船ですか』って聞いたら、

『あれは早稲田の船だ』 って。

『あ、あれに乗りたい!』と思った。」

『稲龍』のできる2年前、昭和37年。日本政府が、25フィート以上の船に40%という高い物品税をかけるようになった。25フィートまでなら10%なのだから大型艇を建造するオーナーは激減した。
その流れの中、建造された 『稲龍』は36フィート。かつて学生界最大のクルーザーだった『早風』よりもさらに4フィートほど大きかった。

葉山の沖にアンカリングしていた『稲龍』 エンジ色の・・・ あのころ、あんな大きい美しい船、なかなか ないからね。
『なんだ あの船は?』『いや あれは早稲田の船・・』
・・・それは非常に印象深かったね。
あれで、私のヨット人生決まったようなもんだ。

稲龍最期のフラッグ

現役時代には杉井氏はスナイプに乗っていたが、この時の思いから稲龍係りとしても活動していく事になる。
当時マネージャーを務めていた大矢木氏をはじめとする稲龍係りには“『稲龍』を学生の手で運用したい”という強い思いがあった。

「当時の『稲龍』係りは、上期 マネージャーの大矢木一さんを始め、
3期に三越の
藤田亨さん (EbbTide)
2期に西華産業の早川恒男さんと富山に戻った美浪清さん、
1期が私と、今、実技講師の平戸雅幸君、大阪で税理士やってる浜田全紀君。と、上期から1期まで頭数が揃っててね。大矢木さんがいた頃にはポイントレースとかも出てた。
でも大矢木さんが卒業すると、部員が少なくはなかったんだけど、意外と活動が低下しましたね。

私が2年、3年の時は、いまいち(稲龍が)動かなくて非常に残念に思ってた。でも、当時、回航の時やレースの本部艇に使用する時は、必ず私はずっと乗らしてもらったね。ほぼ全部乗ってたんじゃないかな。」

「大矢木さんは、『稲龍』で九州に行くという夢を持っていてね、それをやろうとしてた。
九州には遭難した『早風』の先輩の故郷があるからね。北九州出身の青柳先輩、鹿児島出身の上田先輩。追悼の意味もこめて九州一周しようというのは大矢木さんのひとつの念願・・・夢だった。
それもあって43年の秋から、エンジンを取替えたり、かなりの大改装をしていたんだ。」

「わたしなんかも、九州出身だし、九州一周の話に夢を持った。話を聞いたフレッシュマンの頃はすぐ行けるもんだと思ってた。
ところがあまり動かない船になってしまって、目の前に大島が見えるのに、大島に行ったことがない・・・


<後列左より 平戸雅幸氏・横山至孝氏・矢野善紀主将・春日孝信氏・樋田賢氏・宮本能久氏
前列 杉井謙治氏・千把武氏・浜田全紀氏・中川春海氏
1972年3月三戸浜春合宿 48年卒同期>
【稲龍進水式:岡本造船所の前で】
<写真上:「五十年の航跡」p.273(早稲田ヨットクラブ:1984刊)より>


写真下左:【稲龍進水式】 写真下右:【最終艤装】
<OB会早稲田ヨットクラブホームページ『早稲田ヨット年史』より>
【デッキをFRPに改装中の稲龍:1996〜1997年】
下田ボートサービスの伊藤OB(S37年卒)が独力で改修工事をなされた。

昭和37年11月3日夜。
初島レース帰路にあった船団を最大風速20mの突風と豪雨が襲い
早稲田大学ヨット部の旗艦『早風』は失われた。
視界ゼロの東京湾口で、竹を運搬していた船と接触したか、
その船の沈没で流出した多数の竹に接触したのではないかと推測されている。
(参考資料:『早風遭難報告書』p60早稲田ヨットクラブS38年10月)

11月3日夜、消息を絶ったのは、早稲田『早風』の6名。慶応『ミヤ』の4名
戦後 最大のヨット事故であり、新聞雑誌とも論調は厳しかった。

にもかかわらず、
翌年、遭難した部員青柳さんのお父様が、

「『早風』に勝る船を造ってくれ」

とおっしゃって多額の寄付をされた。

『稲龍』は早稲田 不撓不屈の"心意気とプライド" をかけて建造された船である。


設計:渡辺修治。
建造:岡本造船所

大原製帆所は、寄贈された帆布を只でセールに縫製してくれた。

渡辺修治は「"生粋のオーシャンレーサー"としてこの船を造った」と
1967年『舵(1月号)』で述べている。
36フィート・スループ。
ダイヤ社の12馬力エンジン
マルーン色
(と当時は呼ばれた) のハル
マストには「クリートをつけずあえて帆船の面影を残すビレーピン」にした
と、細部にまでコダワリが施され、
学生の安全のために、特に頑丈な船殻構造が考えられていた。

渡辺修治氏が語る『稲龍』 <『』1967年1月号 より>
記事全文が別ウィンドウで開きます。
昭和39年11月21日 進水。
早稲田大学大浜総長が『稲龍』と命名、船尾に金文字で揮毫された。
(これも早稲田ヨット部の伝統で現在の『稲魂』も建造当時の総長の命名、船尾の揮毫である)

2年近くの猛特訓を経て、昭和41年 レース界にデビューした『稲龍』は、たちまち10月21日神子元島レース・11月26日小網代カップ とファーストホームを連取する。(『神子元島レース』『小網代カップ』をクリックするとそれぞれ当時の 『舵』誌の記事が別ウィンドウで開きます)

だが、安全確保のため、大学側との数々の厳しい約束もあった。

当時、稲龍がレース活動する時の中心は、金沢健氏、杉山博保氏、 武村洋一氏山崎達光氏、 清水栄太郎氏などの、経験豊富なOBだった。
そして、昭和40年代は、サンバードシリーズ山崎氏月光並木氏など早稲田OB艇と、 コンテッサ石原慎太郎氏(現東京都知事)達がNORC(日本外洋帆走協会)のレースで丁々発止、三つ巴の1位奪い合いを激化させていった頃でもある。
複数OBの指導なしに運行できない『稲龍』が一時期、あまり動かないフネになってしまったのは、そういう背景もあったかもしれない。

『稲龍』についての、詳しい解説記事はこちらをクリックしてください。
<舵 1967年1月号 『日本のクルーザーNO.35 TORYU』より>
KAZI誌の御好意で転載させていただいております。

二期・三期。『稲龍』の運行が少なく、もどかしい思いをした杉井氏は4年になり、一大決心をする。
当時の主将に直談判し、稲龍の専属部員へ転向したのだ。

「4年になって、5月の早慶戦の前にキャプテンの矢野と話をした。
『スナイパーは一杯いるから、俺のことは勘定に入れず好きにさせてくれ。 『稲龍』を中心にやりたい』とね。」

「ということで、皆と同じ合宿しながら自由に稲龍の整備とか、いろんな計画とか。
当然キャプテンに相談はするんだけど、自由に動ける立場になった。それは有難かったね。
幸いにも、その頃、学生も技量ついて来たから、OB一人乗れば海に出してもいいよということになったんだよ。」

OBの早川恒男氏(s47)に同乗してもらって、一泊二日で伊東へ行ったり、稲魂にお見えになる頼義人氏(s41)にコーチしてもらって鳥羽レース(1972年7月)にも参加。『稲龍』は『舵』誌記者が同乗した『陽焔(かげろう)を一度は抜いた。このようにして杉井さんはクルーザーの技量を磨いていく。(第13回パールレースの記事はこちら)

8月第一週、ディンギーの全日本が九州博多であり、4年生の大半は引退する事になる。
杉井氏は稲龍があるのでまだ活動を続けていた。

夏休みに、沖縄から米軍の軍属が持ってるトリマランを日本人が買い取って、江ノ島に回航するというアルバイトの声がかかった。
風がなくてね。一週間かかってようやく、種子島にたどりついた。私の役目はそれで終わったんだが・・・そういう経験をつんで・・・」


満願成就!ホームポート油壷にて 1973年7月8日

後列高松氏(当時上期)、近岡氏(当時三期)前列左より、杉井氏、石川艇長、一人おいて山本ゆみ子氏(s40)、岡戸義一氏(s42)、大嶋徳次郎氏(当時二期)

そんな時に稲龍の日本一周の話が持ち上がる。

「稲龍のコーチをお願いする為に公認会計士補だった石川先輩のところへ伺った時だよ。
『日本一周するなら、コーチ引き受けてもいいよ』と。

『え?なんですか 日本一周って』(笑)

 
「石川先輩は6期上。
彼自身も稲龍建造の頃からかかわった先輩だから、クルーザーへの思い入れが強いわけですよ。
だから卒業して、公認会計士の受験勉強をしてる間の気分転換に、日本一周計画を作っていた。
この石川先輩のが、非常に精密な計画でね。
だから、プランはもうあった。
あとは船の性能・状況と、運行する人間の心意気。

たまたま私も上期になって、鳥羽レース、トリマランの回航のバイト、いろんな活動をして来て、“これなら出来るかな”という思いがあったから、ふたつ返事で『やりましょう』ということになったんだよ。

それが日本一周のきっかけね。」

42年卒石川光男氏。
『稲龍』の建造が始まった時は『早風』の後、『船なき大型艇担当』の2年生だった。
彼ら、『船なき大型艇担当』は、少しでも時間がある時には、横浜の岡本造船に向かい、最初の頃は船大工が帰った後の片付けをし、やがて、深夜までハルの内側に熱した桐油を塗り込んだり、ペーパー掛けをしたり・・・と、誕生前から愛情を注いでいたと言う。
(『五十年の航跡』p284早稲田ヨットクラブS59刊 より)

早風追悼のために“九州一周したい”という思いを持っていた石川氏。
同じように、入部したフレッシュマンの時から九州へ行く夢をずっと見て来て、なかなか実行のチャンスがなかった杉井氏にとって、日本一周の話は自分の夢を実現できる可能性の高い話だった。

<日本一周航海計画案>
<実行許可願い>
<周航計画概要書(海上保安庁へ)>
クリックすると当時の計画書類がそれぞれ別ウィンドウで開きます

「そして何より早稲田ヨットクラブにも、早風追悼の為九州遠征などの、大型艇を使った大規模な計画を実行したいという思いがあったのだろう。」
と杉井氏は語る。
「今も、会長(並木OB会会長)が、ティンギーだけじゃなくて、大型艇も乗りこなしてこそヨット部であると、よく言われるけれども、これは早稲田ヨットの伝統だよ。

「本当にありがたい事にかれこれ、38年前、40年くらい前の話だけど、一番良い時の・・・みなさんが一生懸命種をまいてずっと育ててきた花のところを頂いた。非常に申し訳なく、と同時に非常に感謝してる。今でもね。」

「だけどね・・・」

「何かをやりたい、という思いをずっと持っていると、いつかは実現するのかもしれない。」

「私は、非常にラッキーだった。・・・ラッキーなチャンスをたまたま捕まえたと言えば言えるけれども
でも、捕まえる、それなりの経験、
沖縄からの回航、稲龍での初めての鳥羽レース参加、私なりの夢の実現の為に、
できるように積み上げていった、という所はある。

だからね、石川先輩の言葉を受けて、それは不安はあったけど、
「とにかくやりましょう!」、と。

迫られたその場で、考えさせてくれ とは、僕は言わなかったね。

様々な人々の思いが日本一周という花となって咲こうとしていた。

<日本一周航海乗艇者一覧>
『稲龍日本一周記念文集』S51より
写真:「五十年の航跡」p.146(早稲田ヨットクラブ:1984)

山崎達光OBのSBから寄付されたヤキソバ・ラーメンなどのインスタント食品400食。
缶詰・水・燃料を積み込み、無線の取り付け。保安部への届出。
修繕したマスト下部の接着剤が剥がれ、その修理ヶ所など気にしながら、最初の乗員が眠ったのは午前2時過ぎだった。
「出発日の3月27日なんていうのは、まだ寒いんだよな。
準備がなかなか間に合わずに、2、3時間仮眠して、朝5時起きて、油壺から、三戸浜の沖に行って、みんな合宿やってたからね、後輩のエールにおくられて一路、下田に向かった。心の中では、これで、多少のトラブルがあっても、おめおめと戻れないなーと、また無事に帰ってこられるかなあとも思ったよ。」

『稲龍』が出航する時は、必ず三戸浜の沖に寄る。
合宿所の部員は、浜に整列して”都の西北”を歌い、エールを送る。
『稲龍』は返礼に、霧笛を長く鳴らし、出帆してゆく。
それがいつもの伝統の儀式だった。

下田に行くと、伊藤先輩が歓迎してくれてね、翌日出航したけど西の強風で、石廊崎をかわせない。安全を期して翌朝再出航。次の寄港地鳥羽へは長距離だから御前崎に入ろうということになった。
御前崎から鳥羽へは本航海初のナイトセーリング
夜なんか寒いし、冷たいし、緊張と不安と、何と言うかな・・・
喜びと感動と緊張と不安がごちゃ混ぜになった気持ちだったねえ、航海最初の頃は・・・」

「帰ってこれるかなあ」と、緊張と不安・・とおっしゃりながら、
実は、御前崎に入った夜、杉井さん達現役は、あきらかに腐った(と石川氏は述べておられる)牛肉を平らげる という豪快無敵な技を発揮する。
「これから何を食わされるやら」不安になった石川コーチは以後、正露丸を友とされたとやら・・・
『稲龍日本一周記念文集』は、ほんとうに面白い。
ぜひ、こちらからクリックしてPDFで全文を読んでいただきたい。

さて、日本一周という目標にはもちろん危険も伴う。

<葉山森戸の浜で>後列左から:樋田賢氏(S48年卒)濱田全紀氏(S48年卒)
中川春海氏(S48年卒) 平戸雅幸氏(S48年卒)
前列:杉井謙治氏(S48)森戸の「珠屋」の番頭さん
<五島列島、福江島・荒川港にて>近岡保博氏(当時3期)撮影:杉井謙治
<写真上:那智勝浦>
左より 青木博和氏(当時3期)近岡氏(当時3期) 杉井氏
<写真中:遠州灘・初釣果>
左より 藤田亨氏(s46) 近岡氏 杉井氏 青木氏

<写真下:由良〜西宮>
西宮までパイロットとして乗っていただいた後藤伸雄氏(s41)
「最初に危ないと思ったのはね、高松に入る前に小豆島を過ぎたあたりで霧にまかれましてね。本船航路のど真ん中で霧にまかれた。

本当に一気に“ワッ”となるんだ。で、バウも見えないくらい。
稲龍は木造でしょ、だから本船のレーダーに船が全く反射しない。
(衝突の危険があるから、)石川さんがアルミで十文字のリフレクター作ってて、それをマストトップに揚げて、フォグホーンを鳴らした。
銀座の交差点みたいに、四方から本船のホーンが聞こえ、霧の中から突然ぬっと他の船が現れる。」

四面楚歌の中あっちへ避けこっちへ避け肝を冷やしたと、航海記念文集にも書かれている。 「それで、からくも、最寄の島影に推測航法で辿り着いた。

で、一晩明かして。 翌日も、視界が悪くてね、天気予報はいつ晴れるかわからないというから、チャートみながら、『何度方向、何マイルにこういう島がある。それを確認したら、何度方向に転進して、何マイルで、何がある』そういうのをいくつか確認して、高松港に入った。
本船航路の真ん中で、まず第一の危機を感じたね。」

「もうひとつは仙台から福島の相馬湖にある松川浦へ入った時。
松川浦は後背に大きな潟があって、入り口が狭いから汐の干満でものすごく急潮になる。その海寄りの半島の上に灯台があって高圧線が引いてある。

たまたま上潮時で、あっという間に汐に流され浅瀬に乗り上げてしまった。5ノット近い流れが砂を巻き上げ渦巻きのようになった。数分揉まれた後、流れに押されて港の方へ動き始めてほっとした瞬間

「バチーン!その、水路を横切る高圧線に、マストが当たっちゃった。」
マストヘッドの碇泊灯は火花を散らして折れた。
「スターンに座ってた三期の恒川てのが、感電してしまった。蒼くなってた。」

翌日、さあ、どうやって港を出ようか。地元の人に聞いたら、何年か前、自衛艦が高圧線を切って人が死んだって話を聞いた。

浅瀬に乗り上げないためには満潮時を狙わなければならないが、そうするとまた、マストがひっかかるわけである。

「石川艇長が寝ないで考えて・・まあ、われわれもそうだけど・・・実は、みんなは寝ちゃった(笑)
一番低い干潮時に、全員ゴム長をはいて、ブームを直角に固定して、ブームに全員乗ってヒールさせて、おっかなびっくり、おそるおそる抜けた。今じゃ笑い話だけどね。」

時には危険だと感じる事もある、普通じゃ考えられない状況に遭遇する事もある。
日本一周は冒険であり、冒険には危険は付き物だ。
しかし、杉井氏はそれを含めて、全てが“楽しい”と言う。


「少々荒れたってね、毎日乗ってると、風に対する抵抗力がついてくる。
それに、ただやみくもに『行きます!』ではないからね。
基礎情報を頭に入れて走ってるから、突発的なことはまずない。

唯一突発な事は、気象の変化。それに汐の事を考えていく。
考えていても遠征のときはいろんな事がある。だから面白い。」

「もちろんヨットそのものも楽しいけど、あちこちの漁港で、地元の人に色々お世話になった。
入った港港で、人と人とのいろんな交流、おもいがけない交わりもある。毎日が新鮮だった。
だからノンストップの世界一周っていうのは私にはもったいない。
記録を立てるって意味では素晴らしいんだろうけどね。
私は人間が好きだから、人間の香りがある、港町に入りたい。そういう旅がしたい。」

サバが入れ食いになった時も、大きなカツオが取れた時もあった。
勝浦の岸壁すぐ傍に、ストリップ小屋があり、杉井先輩は『かなりの関心を示した』そうだが、石川艇長はじめ他のクルーの乗り気を引き出すことができず、喫茶店のコーヒーで涙を飲んだそうである。(<『稲龍』日本一周記念文集>石川OBの航海日誌より)


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様々の体験談をふくめ、
今の自分達のような現役部員にとって、日本一周とは、やはり、大冒険という印象を受ける。
しかし、杉井氏をはじめとするOBの方々が実際にやり遂げたのだから、それはもう“夢”ではない。
その事を杉井氏は現役部員に伝えたいのだと言う。

「いかにして夢を実行するかの工夫をすればいいという話だ。」

「まだやってない世界一周は夢だろうね。
今ボルボオーシャンレースを早稲田チームでやるとか、そういうのは夢だよな。
だけど、ある程度の目標というか、実現可能性のある夢があるなら、具体的に提示しながら いろんな問題を乗り越えていったほうが早いと思う。一つ一つ積み重ねて、やる方がいろんな経験ができる。」

全てが成長する機会であり、“夢”は“計画”によって実行される。そこに面白さがある。
ディンギーで日本一になるのも、クルーザーで日本一周をするのも同じだ。

と杉井氏は話す。
しかし、それは簡単な事ではなく、成功を収めることが出来るのは一握りの人間なのではないだろうか。
だからこそ達成感が生まれる。


<S42年卒 石川氏の英文記事も掲載された>

<写真上:金比羅山で4月12日>
左より石川艇長・杉井氏・近岡氏


<写真下:島根・美保神社で5月22日>
後列左より近岡氏・石川艇長
前列左より大島氏(当時2期)・杉井氏
「日本一周計画というところから行くと、計画は石川先輩が作っていたから、私には苦労はなかった。
でも、もし、これからあなた方がなにかやるとすれば 自ら計画を立てる。すると、また一段と面白いだろうね。

与えられた計画ではなく、自ら調べて、計画を練って、いろんな人のアドバイスをいただいてまとめる。それはそれで人生の良い経験だよ。

そしてひとたび、日本一周の途につけば、基本的にはヨットだから風と汐と ということだよね。いろんな思いがけないことはあるけれどもね。」

下調べをした上で、計画にない思いがけない事に出会うと、それは忘れられない思い出になるという。

「一番強烈だったのは青森の、深浦だね。
深浦に入った時の夕日が真っ赤でね・・・なんていうか、、黒っぽく赤いんだ。それでいてデカイんだ。ぶわあーーっと。
その時は知らなかったけども、『奥の細道』で松尾芭蕉が詠んでるんだ。
「暑き日を海に入れたり最上川」
この句は酒田から詠んだんだね。それは息をのんだね。

『うわあ、こんな太陽があるのか。』

海へいけば日の出も、海に落ちる日の入りも経験しているけど、あの地域には何かあるんだろうね。
酒田のあたりは独特な夕日だ。芭蕉が詠むくらいだからね。自然の造形は本当にすばらしい。と感じた。」


“今まで見たことのない景色を見に行く”
”したことのない経験を積む”
ここに冒険の醍醐味がある
 と杉井氏は話す。

もちろん“全日本インカレ連覇を目指す”というのも冒険の一つであるだろう。
とにかく冒険をするには、それまでの流れを変えようとする先駆者の存在が必要不可欠なのだ。


「例えば並木さん(現OB会会長)が“早稲田で世界一周する”みたいな夢を持って、その夢をみんなに伝えていけば繋がる可能性があるよね。
だから、今のきみらの世代には、今はまだそれがないんだから、ちょっとした波紋を広げる、石を投げる人がいるといいかもしれないよね。
それは君らでも監督でもいい。
何かをやろうじゃないかっていうのは、ひとつの波紋だからね。
そういう時には、最初から非常に細かな実務的な話に入っちゃうと、これは発展しないんだよ。おおまかでいいからまずやってみる。やろうという気持ちさえあればいいと思う。」

たしかに今の現役部員に“日本一周や世界一周”を夢として、学生のうちに何かをやろうとしている選手はいないかも知れない。
これは自分の勝手な考えではあるが、それはディンギーで日本の頂点を極めたいという思いが強いからで、決して冒険心がないわけではないと思う。

しかし“ヨットを志す以上、ディンギーの世界に固執していてはもったいない。
大学卒業後もヨットを続ける為にも、クルーザーの世界を覗いてみたい。”という気持ちは多くの部員が持っていると感じる。
その表れが年に一度のクルージング企画を僕らがとても楽しみにしている事実だ。
僕ら4年生も、第一回 2年の時、『クルーザーで熱海へ』の企画を知らされ、甚平を買ったり浴衣を買ったりして心待ちにし、むちゃくちゃはしゃいだ。
今年でそれも3回目を迎え、ようやく定着してきた。

現役の“大型艇離れ”
杉井氏はその理由を試合日程の変化が一つの要因ではないかと話す。


<1993年 油壷港でくつろぐ晩年の『稲龍』>
晩年の『稲龍』のアルバムはこちら

「オフシーズンがなくなったことが大きいんじゃないかね。
我々は、11月から2月の学期末試験が終わるまではオフシーズンだったんだよ。ウェットスーツがあるわけではないしね。そういうシステムが変わった。
昔はオフシーズンにクルーザーを運航すると言う意識があった。
だから今のディンギーのオフシーズンがない学生のヨット部の中で、どうしたら大型艇を乗りこなせるようになるかが難しいと思う。

一つの解決策は「大型艇係」を部の中に作って、核となるメンバーを育成するシステムを考えたらどうだろう。

私なんかも現役学生の頃、ベテランヨットマンから、『学生なんて4年で卒業したって、まだヒヨっこだ』と、言われたもんだよ。
だけど、実は、『すばらしい可能性を秘めたヒヨっこ』ナンだよね、」君たちも。
『そのヒヨっこがディンギーだけにこだわるんじゃもったいない』と、思うね。」

「私が、今でも忘れられないのは、上期の時、初めて、自分が最高責任者で江ノ島から油壺へ稲龍を回航した時の、あの緊張感。
ちょっと荒れぎみでワンポンしなければならない中で、全員ヨットマンだけど大型艇のリーフ経験者は稲龍係の2人だけ。
あれはありがたい経験だった。
22の時かな。自分が6・7人の命を預かったんだ。あれはすごく緊張したね。
しょっちゅう乗ってる海域だから怖いってことはないけれど、『事故なく、港に入れるかな』とかね。

あの経験は今でも忘れないね。
最高責任者として判断し、乗り切ったときの充足感。
ほんのわずかの距離だけど、私個人としては一皮もふた皮もむけた江ノ島〜油壺の回航だった。

だから出来れば君らも若い22、3歳の時に、全ての責任を持つ大型クルーザーでトレーニングすると、ヨット技術とは違う意味で成長出来るんじゃないかな。


大型艇は素晴らしい。
もちろんディンギーも素晴らしいよ。二人きりでレースを勝ち抜く。それはそれで素晴らしい。
でも、ちょっと違った質が大型艇にはある気がするね。だからぜひとも『大型艇係り』復活、出来るんなら復活して欲しい気はするよ。
せっかく『稲魂』があり、ベテランOB達が元気なんだから。」

最後に杉井氏は 「ありきたりだけれど・・・」 とまた、はにかんだような笑顔で、現役部員へメッセージを送って下さった。

「ヨットっていうのは生涯スポーツ。
それを獲得する良いチャンスを学生の時に得た。
君たちも、人生を広げる素晴らしいチャンスを得たと思って、その時、その瞬間に全力を尽くして欲しい。 頑張れよ!」

今から36年前に、油壺から“夢”を持って出航した稲龍は日本一周を成し遂げた。
それを実現したのは、今の自分たちと年齢の変わらない部員だ。
まずその事実を今の現役部員達は知るべきなのではないかと思う。

「“あれこれ心配する前に、まず実行してみる”そうしなくては夢を実現することは出来ない。」

このOB列伝を読むと、同じ早稲田大学ヨット部のOBでも、お話して下さる事が全く違うようにも感じる人がいるかもしれない。
「ディンギーだけに固執しないで」という方もいれば、「ディンギーの世界も面白い」とおっしゃる方もいる。

しかし、この企画を通じて、最前線でOBの方々のお話を聞いていると、共通して感じることがある。
それは、“早稲田のヨット部としての誇り”や“何かを変えようとしていく力”であり、“夢を持つ事の大切さ”だと思う。

2年生初夏から、連載して来た『OB列伝』
2年半が過ぎ、僕は主将を務めさせていただき、仲間達と全日本女子インカレ初優勝・全日本インカレ連覇の夢を果たした。

1973年『稲龍』日本一周の12年前、1961年。
石田晋也先輩(S37年卒) 小島信浩先輩(s37年没・S38年卒)を中心に、亡き『早風係』達は、世界一周のプランを立てていた。
その夢の航程を地図に起こしたものを最後に掲げたい。
いつか、またきっと、『早稲田大学ヨット部』の旗艦が、遠い大海原へ乗り出して行く日を夢みて。

「挑戦する決断 そして明日へ」
早稲田ヨット 23年後、創部100周年へ。

一人ひとりの目標が何であれ、今の現役部員が学ぶべき、“早稲田大学ヨット部の持つエネルギー”を
改めて実感することの出来た今回のインタビューだった。


地図をクリックすると、予定されていた航程の日程表が表示されます。

(参考資料『五十年の航跡』p225〜228「幻に終わった世界一周計画」早稲田ヨットクラブS59刊)

当 ホームページ内のリンクで開くPDFの『舵』誌の記事は『舵社』のご好意により、当時の『舵』誌から転載許可を頂いております。
この場をお借りして舵社『KAZI誌』と、ご紹介くださいました土肥丈志先輩に厚く御礼申し上げます。

企画制作:4年主将 鈴木恵詞




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