|
■杉井 謙治■
大分県 県立中津南高等学校卒業 |
|
「チャンスを捕まえるための、それなりの経験、 稲龍での初の鳥羽レース参加、沖縄からの回航、私なりの夢の実現の為に、 ”できるように積み上げていった”、という所はある。」
「だからね、石川先輩の言葉を受けて、それは不安はあったけど、
「『さあ、オマエはどうする』と、
|
|
|
|
杉井謙治氏
今の現役部員にとって、最も身近に感じる先輩のお一人と思う。 「娘はぜんぜんやったことがないんで、足手まといになることもあるかと思いますが、よろしくお願いします。」
はにかんだような笑顔でおっしゃった。
「一浪、一年間は北九州の小倉のイトコの所に居候して浪人時代を過ごしました。
で、大学に入ったはいいけれど、右も左もわからない。
『ヨット、なんか面白そうだな』いうことで・・・」 「当時のマネージャー、大矢木 一さんという方でね、「葉山で練習してるから、いらっしゃい」と言われて行ったのが 6月。」 |
|---|---|
|
稲龍最期のフラッグ |
|
現役時代には杉井氏はスナイプに乗っていたが、この時の思いから稲龍係りとしても活動していく事になる。 当時マネージャーを務めていた大矢木氏をはじめとする稲龍係りには“『稲龍』を学生の手で運用したい”という強い思いがあった。 |
|
「当時の『稲龍』係りは、上期 マネージャーの大矢木一さんを始め、 3期に三越の 藤田亨さん (EbbTide)、 2期に西華産業の早川恒男さんと富山に戻った美浪清さん、 1期が私と、今、実技講師の平戸雅幸君、大阪で税理士やってる浜田全紀君。と、上期から1期まで頭数が揃っててね。大矢木さんがいた頃にはポイントレースとかも出てた。 でも大矢木さんが卒業すると、部員が少なくはなかったんだけど、意外と活動が低下しましたね。 私が2年、3年の時は、いまいち(稲龍が)動かなくて非常に残念に思ってた。でも、当時、回航の時やレースの本部艇に使用する時は、必ず私はずっと乗らしてもらったね。ほぼ全部乗ってたんじゃないかな。」
「大矢木さんは、『稲龍』で九州に行くという夢を持っていてね、それをやろうとしてた。
「わたしなんかも、九州出身だし、九州一周の話に夢を持った。話を聞いたフレッシュマンの頃はすぐ行けるもんだと思ってた。 |
![]() <後列左より 平戸雅幸氏・横山至孝氏・矢野善紀主将・春日孝信氏・樋田賢氏・宮本能久氏 前列 杉井謙治氏・千把武氏・浜田全紀氏・中川春海氏 1972年3月三戸浜春合宿 48年卒同期> |
|
【稲龍進水式:岡本造船所の前で】 <写真上:「五十年の航跡」p.273(早稲田ヨットクラブ:1984刊)より> ![]() 写真下左:【稲龍進水式】 写真下右:【最終艤装】 <OB会早稲田ヨットクラブホームページ『早稲田ヨット年史』より> |
【デッキをFRPに改装中の稲龍:1996〜1997年】 下田ボートサービスの伊藤OB(S37年卒)が独力で改修工事をなされた。
|
|
昭和37年11月3日夜。 初島レース帰路にあった船団を最大風速20mの突風と豪雨が襲い 早稲田大学ヨット部の旗艦『早風』は失われた。 視界ゼロの東京湾口で、竹を運搬していた船と接触したか、 その船の沈没で流出した多数の竹に接触したのではないかと推測されている。 (参考資料:『早風遭難報告書』p60早稲田ヨットクラブS38年10月)
11月3日夜、消息を絶ったのは、早稲田『早風』の6名。慶応『ミヤ』の4名 |
|
にもかかわらず、 翌年、遭難した部員青柳さんのお父様が、
とおっしゃって多額の寄付をされた。 『稲龍』は早稲田 不撓不屈の"心意気とプライド" をかけて建造された船である。
|
||||
|
|
|
|||
|
『稲龍』についての、詳しい解説記事はこちらをクリックしてください。 <舵 1967年1月号 『日本のクルーザーNO.35 TORYU』より> KAZI誌の御好意で転載させていただいております。 |
||||
|
二期・三期。『稲龍』の運行が少なく、もどかしい思いをした杉井氏は4年になり、一大決心をする。 当時の主将に直談判し、稲龍の専属部員へ転向したのだ。
|
|
「4年になって、5月の早慶戦の前にキャプテンの矢野と話をした。 『スナイパーは一杯いるから、俺のことは勘定に入れず好きにさせてくれ。 『稲龍』を中心にやりたい』とね。」
「ということで、皆と同じ合宿しながら自由に稲龍の整備とか、いろんな計画とか。
OBの早川恒男氏(s47)に同乗してもらって、一泊二日で伊東へ行ったり、稲魂にお見えになる頼義人氏(s41)にコーチしてもらって鳥羽レース(1972年7月)にも参加。『稲龍』は『舵』誌記者が同乗した『陽焔(かげろう)を一度は抜いた。このようにして杉井さんはクルーザーの技量を磨いていく。(第13回パールレースの記事はこちら)
8月第一週、ディンギーの全日本が九州博多であり、4年生の大半は引退する事になる。
夏休みに、沖縄から米軍の軍属が持ってるトリマランを日本人が買い取って、江ノ島に回航するというアルバイトの声がかかった。 |
![]() 満願成就!ホームポート油壷にて 1973年7月8日後列高松氏(当時上期)、近岡氏(当時三期)前列左より、杉井氏、石川艇長、一人おいて山本ゆみ子氏(s40)、岡戸義一氏(s42)、大嶋徳次郎氏(当時二期) |
|
そんな時に稲龍の日本一周の話が持ち上がる。
「稲龍のコーチをお願いする為に公認会計士補だった石川先輩のところへ伺った時だよ。
『え?なんですか 日本一周って』(笑) |
|
|||
![]()
<日本一周航海計画案> |
「そして何より早稲田ヨットクラブにも、早風追悼の為九州遠征などの、大型艇を使った大規模な計画を実行したいという思いがあったのだろう。」
と杉井氏は語る。 「今も、会長(並木OB会会長)が、ティンギーだけじゃなくて、大型艇も乗りこなしてこそヨット部であると、よく言われるけれども、これは早稲田ヨットの伝統だよ。」 「本当にありがたい事にかれこれ、38年前、40年くらい前の話だけど、一番良い時の・・・みなさんが一生懸命種をまいてずっと育ててきた花のところを頂いた。非常に申し訳なく、と同時に非常に感謝してる。今でもね。」 「だけどね・・・」 「何かをやりたい、という思いをずっと持っていると、いつかは実現するのかもしれない。」
「私は、非常にラッキーだった。・・・ラッキーなチャンスをたまたま捕まえたと言えば言えるけれども
だからね、石川先輩の言葉を受けて、それは不安はあったけど、 迫られたその場で、考えさせてくれ とは、僕は言わなかったね。」
|
||
| 様々な人々の思いが日本一周という花となって咲こうとしていた。 | |||
<日本一周航海乗艇者一覧>『稲龍日本一周記念文集』S51より 写真:「五十年の航跡」p.146(早稲田ヨットクラブ:1984) |
|
山崎達光OBのSBから寄付されたヤキソバ・ラーメンなどのインスタント食品400食。 缶詰・水・燃料を積み込み、無線の取り付け。保安部への届出。 修繕したマスト下部の接着剤が剥がれ、その修理ヶ所など気にしながら、最初の乗員が眠ったのは午前2時過ぎだった。 |
|
「出発日の3月27日なんていうのは、まだ寒いんだよな。 準備がなかなか間に合わずに、2、3時間仮眠して、朝5時起きて、油壺から、三戸浜の沖に行って、みんな合宿やってたからね、後輩のエールにおくられて一路、下田に向かった。心の中では、これで、多少のトラブルがあっても、おめおめと戻れないなーと、また無事に帰ってこられるかなあとも思ったよ。」
『稲龍』が出航する時は、必ず三戸浜の沖に寄る。
下田に行くと、伊藤先輩が歓迎してくれてね、翌日出航したけど西の強風で、石廊崎をかわせない。安全を期して翌朝再出航。次の寄港地鳥羽へは長距離だから御前崎に入ろうということになった。
「帰ってこれるかなあ」と、緊張と不安・・とおっしゃりながら、
さて、日本一周という目標にはもちろん危険も伴う。
|
<葉山森戸の浜で>後列左から:樋田賢氏(S48年卒)濱田全紀氏(S48年卒) 中川春海氏(S48年卒) 平戸雅幸氏(S48年卒) 前列:杉井謙治氏(S48)森戸の「珠屋」の番頭さん
<五島列島、福江島・荒川港にて>近岡保博氏(当時3期)撮影:杉井謙治
|
|
<写真上:那智勝浦> 左より 青木博和氏(当時3期)近岡氏(当時3期) 杉井氏 <写真中:遠州灘・初釣果> 左より 藤田亨氏(s46) 近岡氏 杉井氏 青木氏 ![]() <写真下:由良〜西宮> 西宮までパイロットとして乗っていただいた後藤伸雄氏(s41) |
「最初に危ないと思ったのはね、高松に入る前に小豆島を過ぎたあたりで霧にまかれましてね。本船航路のど真ん中で霧にまかれた。
本当に一気に“ワッ”となるんだ。で、バウも見えないくらい。 四面楚歌の中あっちへ避けこっちへ避け肝を冷やしたと、航海記念文集にも書かれている。 「それで、からくも、最寄の島影に推測航法で辿り着いた。 で、一晩明かして。
翌日も、視界が悪くてね、天気予報はいつ晴れるかわからないというから、チャートみながら、『何度方向、何マイルにこういう島がある。それを確認したら、何度方向に転進して、何マイルで、何がある』そういうのをいくつか確認して、高松港に入った。
「もうひとつは仙台から福島の相馬湖にある松川浦へ入った時。 たまたま上潮時で、あっという間に汐に流され浅瀬に乗り上げてしまった。5ノット近い流れが砂を巻き上げ渦巻きのようになった。数分揉まれた後、流れに押されて港の方へ動き始めてほっとした瞬間
「バチーン!その、水路を横切る高圧線に、マストが当たっちゃった。」 翌日、さあ、どうやって港を出ようか。地元の人に聞いたら、何年か前、自衛艦が高圧線を切って人が死んだって話を聞いた。」 浅瀬に乗り上げないためには満潮時を狙わなければならないが、そうするとまた、マストがひっかかるわけである。
「石川艇長が寝ないで考えて・・まあ、われわれもそうだけど・・・実は、みんなは寝ちゃった(笑)
|
|
時には危険だと感じる事もある、普通じゃ考えられない状況に遭遇する事もある。 日本一周は冒険であり、冒険には危険は付き物だ。 しかし、杉井氏はそれを含めて、全てが“楽しい”と言う。
|
||
|
「少々荒れたってね、毎日乗ってると、風に対する抵抗力がついてくる。 それに、ただやみくもに『行きます!』ではないからね。 基礎情報を頭に入れて走ってるから、突発的なことはまずない。 唯一突発な事は、気象の変化。それに汐の事を考えていく。 考えていても遠征のときはいろんな事がある。だから面白い。」
「もちろんヨットそのものも楽しいけど、あちこちの漁港で、地元の人に色々お世話になった。
サバが入れ食いになった時も、大きなカツオが取れた時もあった。
|
||
記事をクリックすると拡大します
様々の体験談をふくめ、
|
|
|
「いかにして夢を実行するかの工夫をすればいいという話だ。」
「まだやってない世界一周は夢だろうね。
全てが成長する機会であり、“夢”は“計画”によって実行される。そこに面白さがある。
と杉井氏は話す。 |
![]() <S42年卒 石川氏の英文記事も掲載された> |
|
<写真上:金比羅山で4月12日> 左より石川艇長・杉井氏・近岡氏 ![]() <写真下:島根・美保神社で5月22日> 後列左より近岡氏・石川艇長 前列左より大島氏(当時2期)・杉井氏 |
「日本一周計画というところから行くと、計画は石川先輩が作っていたから、私には苦労はなかった。 でも、もし、これからあなた方がなにかやるとすれば 自ら計画を立てる。すると、また一段と面白いだろうね。 与えられた計画ではなく、自ら調べて、計画を練って、いろんな人のアドバイスをいただいてまとめる。それはそれで人生の良い経験だよ。 そしてひとたび、日本一周の途につけば、基本的にはヨットだから風と汐と ということだよね。いろんな思いがけないことはあるけれどもね。」 下調べをした上で、計画にない思いがけない事に出会うと、それは忘れられない思い出になるという。
「一番強烈だったのは青森の、深浦だね。
『うわあ、こんな太陽があるのか。』
海へいけば日の出も、海に落ちる日の入りも経験しているけど、あの地域には何かあるんだろうね。 |
|
“今まで見たことのない景色を見に行く” ”したことのない経験を積む” ここに冒険の醍醐味がある と杉井氏は話す。
もちろん“全日本インカレ連覇を目指す”というのも冒険の一つであるだろう。 |
|
「例えば並木さん(現OB会会長)が“早稲田で世界一周する”みたいな夢を持って、その夢をみんなに伝えていけば繋がる可能性があるよね。 だから、今のきみらの世代には、今はまだそれがないんだから、ちょっとした波紋を広げる、石を投げる人がいるといいかもしれないよね。 それは君らでも監督でもいい。 何かをやろうじゃないかっていうのは、ひとつの波紋だからね。 そういう時には、最初から非常に細かな実務的な話に入っちゃうと、これは発展しないんだよ。おおまかでいいからまずやってみる。やろうという気持ちさえあればいいと思う。」
たしかに今の現役部員に“日本一周や世界一周”を夢として、学生のうちに何かをやろうとしている選手はいないかも知れない。
しかし“ヨットを志す以上、ディンギーの世界に固執していてはもったいない。
現役の“大型艇離れ” |
![]() <1993年 油壷港でくつろぐ晩年の『稲龍』> 晩年の『稲龍』のアルバムはこちら |
|
|
「オフシーズンがなくなったことが大きいんじゃないかね。 我々は、11月から2月の学期末試験が終わるまではオフシーズンだったんだよ。ウェットスーツがあるわけではないしね。そういうシステムが変わった。 昔はオフシーズンにクルーザーを運航すると言う意識があった。 だから今のディンギーのオフシーズンがない学生のヨット部の中で、どうしたら大型艇を乗りこなせるようになるかが難しいと思う。 一つの解決策は「大型艇係」を部の中に作って、核となるメンバーを育成するシステムを考えたらどうだろう。
私なんかも現役学生の頃、ベテランヨットマンから、『学生なんて4年で卒業したって、まだヒヨっこだ』と、言われたもんだよ。
「私が、今でも忘れられないのは、上期の時、初めて、自分が最高責任者で江ノ島から油壺へ稲龍を回航した時の、あの緊張感。
あの経験は今でも忘れないね。 だから出来れば君らも若い22、3歳の時に、全ての責任を持つ大型クルーザーでトレーニングすると、ヨット技術とは違う意味で成長出来るんじゃないかな。 |
|
|
大型艇は素晴らしい。 もちろんディンギーも素晴らしいよ。二人きりでレースを勝ち抜く。それはそれで素晴らしい。 でも、ちょっと違った質が大型艇にはある気がするね。だからぜひとも『大型艇係り』復活、出来るんなら復活して欲しい気はするよ。 せっかく『稲魂』があり、ベテランOB達が元気なんだから。」 最後に杉井氏は 「ありきたりだけれど・・・」 とまた、はにかんだような笑顔で、現役部員へメッセージを送って下さった。
「ヨットっていうのは生涯スポーツ。 |
|
今から36年前に、油壺から“夢”を持って出航した稲龍は日本一周を成し遂げた。 それを実現したのは、今の自分たちと年齢の変わらない部員だ。 まずその事実を今の現役部員達は知るべきなのではないかと思う。
「“あれこれ心配する前に、まず実行してみる”そうしなくては夢を実現することは出来ない。」
このOB列伝を読むと、同じ早稲田大学ヨット部のOBでも、お話して下さる事が全く違うようにも感じる人がいるかもしれない。
しかし、この企画を通じて、最前線でOBの方々のお話を聞いていると、共通して感じることがある。
2年生初夏から、連載して来た『OB列伝』
1973年『稲龍』日本一周の12年前、1961年。
「挑戦する決断 そして明日へ」
一人ひとりの目標が何であれ、今の現役部員が学ぶべき、“早稲田大学ヨット部の持つエネルギー”を |
![]() 地図をクリックすると、予定されていた航程の日程表が表示されます。 (参考資料『五十年の航跡』p225〜228「幻に終わった世界一周計画」早稲田ヨットクラブS59刊) |
|
当 ホームページ内のリンクで開くPDFの『舵』誌の記事は『舵社』のご好意により、当時の『舵』誌から転載許可を頂いております。 この場をお借りして舵社『KAZI誌』と、ご紹介くださいました土肥丈志先輩に厚く御礼申し上げます。 企画制作:4年主将 鈴木恵詞 |
