早稲田大学ヨット部

■武村 洋一■

早稲田大学高等学院ヨット部出身
早稲田大学第一文学部卒業
1952年 宮城国体 高校スナイプ級優勝 クルーは現OB会長並木茂士氏
1955年 全日本インカレ優勝 MVP受賞
1968年 チャイナシーレース出場・往復回航スキッパー
1975年 シドニーホーバートレース出場
1992年・95年・2000年 日本チャレンジチームスタッフとしてアメリカズカップに挑戦
1994年-95年 早稲田大学ヨット部監督
2000年 シドニーオリンピック セーリングチームスタッフ
2001年よりJSAF(日本セーリング連盟) 事務局長として日本一周フラッグリレー、愛・地球博国際セーリングシリーズ等のビックイベントを多数運営

 
「俺はシーマンシップで一番優れているのは漁師だと思う。
船の扱い、ロープの扱い、天候の予測・・・非常に優れている。
ややもするとシーマンシップというのはスポーツマンシップと混同されて精神的なものと捉えられがちだけれども
そうじゃない・・・」

<今年国際セーリング連盟が発足して100年になる> 原宿の岸記念体育館。
ここにはJOCの事務局を始め様々な競技団体の事務所がある。
一階のラウンジ、向かい合って座ると武村氏は
「どんな話をすればいいんだい?」 ニコニコしながら聞かれた。
「武村さんが現役の時のお話からお願いします。」

「俺が学院のヨット部に入ったのが昭和25年。1950年だよ。
まだ戦争が終わって5年しか経ってないから交通事情も食糧事情も発展途上。
そんな中でヨットを始めたんだ」

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もちろん、まだプラスティックなどの石油製品もない。
ヨットは木造、セールは木綿 ロープは麻か木綿だった。

「着るものがまた酷い。
今みたいにウエットスーツもドライスーツもないからね。
普通のカッパとか着てやるんだよ。だから冬なんて乗れなかったね」

したがって当時は11月半ばから翌2月いっぱいはシーズンオフだった。
船は陸(おか)に上げコモをかぶせておく。
三月にコモをはがし、最初にペンキを塗りなおす。それからシーズンを始めたという。

当時の学院ヨット部は何人いたんですか?
「10人くらいかな。そんなに多くはなかったけど強かった。」
当時はインターハイというものはなく、国体の高校の部が高校生の一番大きな大会で、国体の東京代表は学院と決まっていた。
「東京代表を争う相手はいなかった。いや、相手はいたが、相手にならなかった」
という。事実昭和26年の広島国体の高校生の部で学院は優勝している。

次の年、昭和27年に初めてスナイプ級が国体の高校の部に採用された。国体はA級ディンギーとスナイプ級の2種目となった。
話は昭和27年の宮城国体のことになる。

「当時はスナイプはリーフ (縮帆) もしたんだよ。」
「風が強くなってきてさ、リーフしようかって話をしたんだけど、めんどくさいからしなかった(笑)
みんなリーフしてるなか、一隻だけフルセールで出てぶっちぎりに走っちゃって優勝したんだ」

(風の強すぎる時にはリーフしてセールの面積を減らさないと船にパワーがつき過ぎて危ないことがある)

その宮城での国体、武村氏の相方で「めんどくさいからこのままいっちゃおう」と主張したのが並木氏だった。
「ハイクアウトに自信があったのだろうね。」


「当時学院のヨット部はクルーザーは持ってなかったんですか?」

「学院のヨット部はA級ディンギーとスナイプの2クラスで大学と同じだから、学院ヨット部がヨットを持つ必要がなかった。大学と一緒にやっていればよかった。ふつうの練習もいつも大学生と一緒にやっていたよ。」
練習を大学生と一緒にやっていた時の面白いエピソードがある。

「そのころはね、新入部員のことをフレッシュマンと言った。
学院(高校生)だろうが、大学の二年生だろうが (入部して)一年目はフレッシュマン。
その上が二期、三期、上期。
だからたとえば学院の二年目は二期・三年目は三期になるでしょ。それが 大学生のフレッシュマンを呼び捨てにしていい。
呼び捨てにしろ と言われたんだよ。」

つまり学院ヨット部の高校二年生が大学一年生を呼び捨てにする。
大学一年生は学院ヨット部の二年生に敬語を使うということだ

「これは非常にやりにくかったね。
まあ、さすがにこの習慣はしばらくしてなくなったけど(笑)」

海の上は年齢ではなくて「年季」だという考え方だったのだ。

<2007年第十七回全日本A級ディンギー選手権:牛窓ヨットハーバー>
一番右 セールNO,1 早稲田艇

写真撮影:小川知廣氏


武村氏は大学4年間をずっとA級ディンギーで競技した。」

「君らが今乗っている470もスナイプもスループヨット(二枚帆のヨット)でしょ?A級はキャットリグ(一枚帆のヨット)なんだよ。セールも木綿で、濡れると縮んでしまう。」

セールは縮んでしまうとどうしようもない。
大きさも変わるし、セール自体のシェイプも変わってスピードが出ない。

「だから早慶戦は当時から二日間あったけど、一日目が雨だとわざと古いセールを使う。そういうセールの選択にも作戦もあったな。」

このころの早慶戦は毎年5月の第一週と決まっていた。
A級5隻、スナイプ5隻で戦った。当時は慶応の方が強かったという。

「早慶戦をやる時には他の学校の連中はその水面を走らない。そういう礼儀が決まっていた。 だから、新興大学の知らないやつがたまに出てきたりすると、「コラッ」って怒鳴りつけて帰らしたもんだ(笑)その代わり他の大学が定期戦やってる時は早稲田が遠慮してた。」

神聖な場としてお互いに尊重しあっていた…ということだと思う。
「そういう”礼儀”、昔からの”伝統”が生きていた」 という。
   
「ちょっと今では考えられないと思うけど、横浜のヨットハーバースタートラインは岸壁の目の前でスタートラインにつくんだよ。
陸上にポールが立ってて、そこに信号旗を揚げる。
こんなでかい玉を5つ上げてて、一分毎に一つずつ下ろしていく。そういうスタートの仕方をしていたよ。」

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ここでも面白い話がある。時計の話だ


「昔の時計はもちろん防水じゃないでしょ?
だから海につけていくと濡れて壊れちゃう。
だから俺らはコンドームを買ってきてさ(笑)
その中に時計を入れて海に持ってってた。
”コンドーム係”ってのも部内にあった(笑)」

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「そこでスタートの話に戻るけど、、」
武村氏はまたニコニコしながら口を開いた。また一つ面白い話が始まる。

「当時はちょうど1分間で歌いきれる歌も考えてたね。」

どういうことかというと、陸上のポールに5つの玉が上がっている。
それが1分毎に一つ降りるわけだから、
ちょうど1分で歌い終わる歌を5回歌い終わった時に
スタートになるというわけだ。

「たとえば"もしもしカメよ"とか、そういう歌だよ(笑)
歌のどのへんだから、今、スタート何秒前だ。みたいにカウントしながら、海の上でスタートラインをキープしていた。
まあ、アヤシイもんだけど(笑)」
これも一つの工夫だったのだ。
スタート前に相手を睨んでけん制しながら
「もしもしカメよ」 と、口ずさむ
先輩方の姿が目に浮かぶ。

武村氏はアメリカズカップの日本チャレンジや、愛・地球博記念国際セーリングシリーズなどの大きなイベントに数々関わってこられた。
話は初めての海外レースに移ってゆく。
「当時はね、素人が外国へなかなか行けない時代。
とんでもない理由・・・オリンピック代表選手とかでもないと、素人はパスポートがもらえない。
戦後初めてヘルシンキに行ったでしょ?アレが1952年だから。
そのときは海外で練習もなしに、ただ行っただけ。東京オリンピックが昭和39年(1964年)そのちょっと前くらいからな。
やっと海外遠征がぽつぽつ始まった。」
それもそうだろう。当時は固定相場制で一ドルが360円。
武村氏が初めて海外に行ったのが昭和43年。その時もまだ一ドル360円だった。
「これがちょっと不思議な話なんだけど、始めての海外旅行が俺はヨットなんだよ。
飛行機じゃなくてね。」

チャイナシーレース(香港〜マニラレース)に出場するためだ。

 

「その時はGPSなんてもちろんない。
無線や他の機械もヨットにつめるようなコンパクトなものはない。だから結局、なんもナシで行ったんだよ。
じゃあどうやって船の位置を出すのかというと、天測だ。」



天測といえば星を使うイメージだが、武村氏たちは太陽を用いたそうだ。
ヨットはスピードがそんなに速くない。1日に1度測れば充分だったという。



「数ヶ月前にセクスタント(六分儀)という天測の機械を買って練習を始めた。
海上保安庁の巡視船に乗せてもらって船長に教えてもらう。
さて意気揚々とレースに向かったが、天測で外洋航海するのも初めてだ。
チャートにプロッティングって、船位を入れていくんだけど、それが正確かどうかがわからない。
海しか見えない、陸(おか)が見えないから、信じるしかないわけだ。」


「あれはちょうど出発して10日目くらいだったかな。
”今日の午後四時南大東島を通過する”とその日の午前中に天測で予測を出した。
そして、「今日の午後四時に南大東島を通過するよ」と俺は宣言した。俺は艇長だからな。

だけど、ほんとはわかんないわけだよ。(笑)
ワッチを交代して寝たんだけど、心配で寝れなかった。

で、二時くらいだよ。
当直が「見えた!!」って言ったんだよ。
(南大東島はまっ平らな島影だ)
で、見えてから二時間くらい走って、ちょうど午後四時に南大東島を通過した。

あの時はね、俺は本当にほっとしたんだけど、それ以上に 天測の正確さというものを身をもって感じてびっくりした。そういう体験がある。それは面白かったよ。」

シーマンシップという言葉がある。
いろいろな捉え方があるが、武村氏はこれを
“海の上で生き残るための技術“ だと説明する。

「今は天気図なんてインターネットですぐ手にはいるだろう?
でも、天気図は自分で作らなきゃならなかった。
ラジオで気象通報を聞いて 自分で天気図をつくって予測をたてる。

ところが海外へ行くと 電波が届かない。短波放送なら世界中に届く。短波専用ラジオを積んで毎日二回聴いて天気図をつくる。

吹いてくる二時間くらい前から、短波で荒天気予報聞きながら、長靴はいて、セール縮めて、「さあっ 来い!!」って構えていた。

船も人間も強かった。
それが外洋航海の基本なんだ。」

「シーマンシップというのは“海の上で生き残るための技術“なんだよ。
知恵とか技術」

「当時のヨット部は普段はディンギーに乗っていたけれども、常にシーマンシップを意識して身につけよ、と教えられたし、
それを、俺たちも一つの目標にしていた」

武村氏の話はこのように本当に「面白い」。勉強になる。
これはヨットをやっていない人が聞いても同じように面白いと感じるのではないかと思う。

そして武村氏は現在のヨット部の状態を「最高の状態」と形容した。
それはヨットに対する情報を豊富に持っている畠山監督がいること、部活として現在結果を残せていること。その2点を備え、部内の雰囲気が良ければ、それは部活として最高なのだ。

「帆走とは本来、自由闊達な人間の行為であり、その基本は冒険心と創造性でなければならない。
だから、「魂」とか「根性」となどと、なかみのない言葉をふりかざすより、『笑進』っていかにも肩の力が抜けて、自然体でいいね。
それがチームワークにつながって、レース結果にも表れていると思います。」

そう、話してくださった。
また大学ヨット部とは、

「ヨットの基礎を学ぶ場所。大学後のセーリング人生を花咲かせるための準備をする場所だ。」
と語る。
ヨットは競技生命も長く、選手としてのピークが年齢的に高い。

「だからこそみんなには卒業してもヨットを続けてほしい。」
僕たちがよく聞くこの言葉も、一度武村氏のお話を伺えば、非常に心に響くものだ。

武村氏は現役生のためにメッセージを用意していてくださった。それを原文のまま掲載してしめくくりたい。



現役生へ
私が大学に入学したときに、新入生に対して、ある教授が次のようなことを言ったのを覚えています。もう50年以上昔のことです。
「教科書や専門書はななめに読んでよろしい。小説を読みなさい。小説を読んで、そのページに落とす一滴の涙を大切にしなさい」
そして、さらに続けて。
「スポーツをやりなさい。それも、本格的にやりなさい。生涯OB(OG)としてそのスポーツの雰囲気に浸れるようになりなさい」
いま、私は、ヨット部の学生諸君と、共に笑い、喜び、口惜しい思いができることをこの上なく喜んでいます。

読書
高校生の頃、岩波新書で 池田 潔 著 「自由と規律」を読みました。
ヨット部に入って、本格的にヨットを始めて、スポーツマンシップとは、なんて真剣に考えていた頃でした。 この本を読んで、スポーツマンシップの答えが見つかったような気になったものでした。
そして、noblesse oblige という言葉に出会いました。ラグビーが好きになりました。
忘れられない少年期の1冊です

誇り
大げさなものでなくてもいい。自分だけの、小さな誇りを見つけて、それをいつまでももち続けてください。
他人に言うと、なんだ、そんなこと、と言われるかもしれませんが、そんなことでいいのです。
あの時、俺は、こうだった。私は、そう思って行動した。
それが君の小さな誇りであればいいのです。
そんなひそかな誇りが、生きる支えになることがあります。



文責:2年HP係 鈴木恵詞




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