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■武村 洋一■
早稲田大学高等学院ヨット部出身 |
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「俺はシーマンシップで一番優れているのは漁師だと思う。 船の扱い、ロープの扱い、天候の予測・・・非常に優れている。 ややもするとシーマンシップというのはスポーツマンシップと混同されて精神的なものと捉えられがちだけれども そうじゃない・・・」
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| <今年国際セーリング連盟が発足して100年になる> | 原宿の岸記念体育館。 ここにはJOCの事務局を始め様々な競技団体の事務所がある。 一階のラウンジ、向かい合って座ると武村氏は 「どんな話をすればいいんだい?」 ニコニコしながら聞かれた。 「武村さんが現役の時のお話からお願いします。」
「俺が学院のヨット部に入ったのが昭和25年。1950年だよ。 |
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0 もちろん、まだプラスティックなどの石油製品もない。 ヨットは木造、セールは木綿 ロープは麻か木綿だった。 「着るものがまた酷い。 今みたいにウエットスーツもドライスーツもないからね。 普通のカッパとか着てやるんだよ。だから冬なんて乗れなかったね」
したがって当時は11月半ばから翌2月いっぱいはシーズンオフだった。 |
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当時の学院ヨット部は何人いたんですか?
「10人くらいかな。そんなに多くはなかったけど強かった。」 当時はインターハイというものはなく、国体の高校の部が高校生の一番大きな大会で、国体の東京代表は学院と決まっていた。 「東京代表を争う相手はいなかった。いや、相手はいたが、相手にならなかった」 という。事実昭和26年の広島国体の高校生の部で学院は優勝している。
次の年、昭和27年に初めてスナイプ級が国体の高校の部に採用された。国体はA級ディンギーとスナイプ級の2種目となった。
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「当時はスナイプはリーフ
(縮帆)
もしたんだよ。」 「風が強くなってきてさ、リーフしようかって話をしたんだけど、めんどくさいからしなかった(笑) みんなリーフしてるなか、一隻だけフルセールで出てぶっちぎりに走っちゃって優勝したんだ」 (風の強すぎる時にはリーフしてセールの面積を減らさないと船にパワーがつき過ぎて危ないことがある) その宮城での国体、武村氏の相方で「めんどくさいからこのままいっちゃおう」と主張したのが並木氏だった。 「ハイクアウトに自信があったのだろうね。」 |
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「当時学院のヨット部はクルーザーは持ってなかったんですか?」 |
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「学院のヨット部はA級ディンギーとスナイプの2クラスで大学と同じだから、学院ヨット部がヨットを持つ必要がなかった。大学と一緒にやっていればよかった。ふつうの練習もいつも大学生と一緒にやっていたよ。」 |
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練習を大学生と一緒にやっていた時の面白いエピソードがある。
「そのころはね、新入部員のことをフレッシュマンと言った。 海の上は年齢ではなくて「年季」だという考え方だったのだ。 |
<2007年第十七回全日本A級ディンギー選手権:牛窓ヨットハーバー>
一番右 セールNO,1 早稲田艇 ![]() 写真撮影:小川知廣氏
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武村氏は大学4年間をずっとA級ディンギーで競技した。」 |
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「君らが今乗っている470もスナイプもスループヨット(二枚帆のヨット)でしょ?A級はキャットリグ(一枚帆のヨット)なんだよ。セールも木綿で、濡れると縮んでしまう。」 |
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セールは縮んでしまうとどうしようもない。 大きさも変わるし、セール自体のシェイプも変わってスピードが出ない。 |
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「だから早慶戦は当時から二日間あったけど、一日目が雨だとわざと古いセールを使う。そういうセールの選択にも作戦もあったな。」 |
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このころの早慶戦は毎年5月の第一週と決まっていた。 A級5隻、スナイプ5隻で戦った。当時は慶応の方が強かったという。 |
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「早慶戦をやる時には他の学校の連中はその水面を走らない。そういう礼儀が決まっていた。 だから、新興大学の知らないやつがたまに出てきたりすると、「コラッ」って怒鳴りつけて帰らしたもんだ(笑)その代わり他の大学が定期戦やってる時は早稲田が遠慮してた。」 |
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神聖な場としてお互いに尊重しあっていた…ということだと思う。 「そういう”礼儀”、昔からの”伝統”が生きていた」 という。 |
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「ちょっと今では考えられないと思うけど、横浜のヨットハーバースタートラインは岸壁の目の前でスタートラインにつくんだよ。 陸上にポールが立ってて、そこに信号旗を揚げる。 こんなでかい玉を5つ上げてて、一分毎に一つずつ下ろしていく。そういうスタートの仕方をしていたよ。」
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「昔の時計はもちろん防水じゃないでしょ? だから海につけていくと濡れて壊れちゃう。 だから俺らはコンドームを買ってきてさ(笑) その中に時計を入れて海に持ってってた。 ”コンドーム係”ってのも部内にあった(笑)」 |
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. 「そこでスタートの話に戻るけど、、」 武村氏はまたニコニコしながら口を開いた。また一つ面白い話が始まる。 「当時はちょうど1分間で歌いきれる歌も考えてたね。」
どういうことかというと、陸上のポールに5つの玉が上がっている。 |
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「たとえば"もしもしカメよ"とか、そういう歌だよ(笑) 歌のどのへんだから、今、スタート何秒前だ。みたいにカウントしながら、海の上でスタートラインをキープしていた。 まあ、アヤシイもんだけど(笑)」 |
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これも一つの工夫だったのだ。 スタート前に相手を睨んでけん制しながら 「もしもしカメよ」 と、口ずさむ 先輩方の姿が目に浮かぶ。 |
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武村氏はアメリカズカップの日本チャレンジや、愛・地球博記念国際セーリングシリーズなどの大きなイベントに数々関わってこられた。 話は初めての海外レースに移ってゆく。 |
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「当時はね、素人が外国へなかなか行けない時代。 とんでもない理由・・・オリンピック代表選手とかでもないと、素人はパスポートがもらえない。 戦後初めてヘルシンキに行ったでしょ?アレが1952年だから。 そのときは海外で練習もなしに、ただ行っただけ。東京オリンピックが昭和39年(1964年)そのちょっと前くらいからな。 やっと海外遠征がぽつぽつ始まった。」 |
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それもそうだろう。当時は固定相場制で一ドルが360円。 武村氏が初めて海外に行ったのが昭和43年。その時もまだ一ドル360円だった。 |
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「これがちょっと不思議な話なんだけど、始めての海外旅行が俺はヨットなんだよ。 飛行機じゃなくてね。」
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チャイナシーレース(香港〜マニラレース)に出場するためだ。
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シーマンシップという言葉がある。 いろいろな捉え方があるが、武村氏はこれを “海の上で生き残るための技術“ だと説明する。
「今は天気図なんてインターネットですぐ手にはいるだろう?
ところが海外へ行くと 電波が届かない。短波放送なら世界中に届く。短波専用ラジオを積んで毎日二回聴いて天気図をつくる。
吹いてくる二時間くらい前から、短波で荒天気予報聞きながら、長靴はいて、セール縮めて、「さあっ 来い!!」って構えていた。
船も人間も強かった。 |
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「シーマンシップというのは“海の上で生き残るための技術“なんだよ。 知恵とか技術」
「当時のヨット部は普段はディンギーに乗っていたけれども、常にシーマンシップを意識して身につけよ、と教えられたし、 |
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武村氏の話はこのように本当に「面白い」。勉強になる。 これはヨットをやっていない人が聞いても同じように面白いと感じるのではないかと思う。
そして武村氏は現在のヨット部の状態を「最高の状態」と形容した。
「帆走とは本来、自由闊達な人間の行為であり、その基本は冒険心と創造性でなければならない。
そう、話してくださった。 |
| 武村氏は現役生のためにメッセージを用意していてくださった。それを原文のまま掲載してしめくくりたい。 |
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| 文責:2年HP係 鈴木恵詞 |
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