早稲田大学ヨット部


■山崎 達光■
東京都 暁星高等学校卒業
1957年 早稲田大学商学部卒業
1968年 チャイナシー(香港〜マニラ)レース
1972年 SunBirdU世 シドニーOneTonCup World Championships8位
1974年 第二回沖縄-東京レース優勝
1975年 SunBirdX世サザンクロスカップレース9位
1977年 アドミラルズカップ 日本初出場
1980年・81年 シドニーホバートレース出場
1983年 スーパーサンバードAllJapan Offshore Champion Series 優勝
1985年 Trans Pacific Race 8位
1992年-2000年 アメリカズカップニッポンチャレンジ三回参戦 全てベスト4入りを果たす
2000年・2004年 シドニー・アテネ五輪セーリングチームを率いる
エスビー食品株式会社 グループ代表
財団法人日本セーリング連盟 会長

「負けない。 負けたくない。」
「一旦、腹くくったら、しゃにむに走った。」

「アンカーロープは伸びて、船はあっちこっち、いろんなところへ行くけれども、
探っていけば碇は間違いなく早稲田大学ヨット部に打ってあった。」


SB食品の中央オフィスの会議室で向かい合うように座ると、開口一番
「さ、どんな話をすればいいのかな?あ、コーヒー飲みなさい」
山崎氏はSB食品株式会社のグループ会長でおられるが、同時に早稲田大学ヨット部のOBとして緊張気味の僕に気を遣って下さった。このOB列伝は学生時代のエピソードから大学卒業後から今に至るまでのヨットにまつわるエピソードを中心に掲載させて頂いている。それを説明すると
「えーとね、私がヨットを始めたのは高校一年生の夏だったかな。親父が館山に夏の家を持っていてね、そこでいわゆる貸しヨットに乗ったのが全ての始まりだよ」
“ヨットを始めたきっかけ”から話が始まる。OB列伝の主旨を理解し、順を追って話そうとして下さる山崎氏の人柄に嬉しくなった。

「まあ、その貸しヨットは何クラスとも言えないような船でセールに森永キャラメルなんて書いてあったけど(笑)とにかく見よう見まねで海へ出たんだよ。」
山崎氏はその初めてヨットに乗った時の感覚を今でも覚えているという。


「もう、その時の純粋な気持ちってのは忘れもしないね。
『これはすごいぞ』って思った。
『海の向こうには何があるんだろう』って。
とにかく強烈な衝撃を受けた。」


「それからまあ誰がコーチということじゃないけど、教わりながら高校時代の夏を過ごした。」

山崎氏は昭和28年に早稲田大学商学部に入学する。
その時の4年生にゴルフのアマチュアで日本最高と言われた金田武明氏がいた。金田氏は山崎氏の高校の先輩でもあり、「ゴルフ部に入れよ」とも言われたらしい。 しかし山崎氏は体育会のヨット部を選んだ。

「当時のゴルフ部は体育会として認めてもらえてなかったんだよ。
そんなことでね、ゴルフもやってみたかったんだけどやめたんだ。で・・・、ぽっと見たらヨット部募集の机があったんですよ。
なにしろ大学へ入ったら、一つはスポーツをやろうと思っていた。無条件にヨット部に入りましたよ。」


「それからは練習に参加して、君たちと同じような格好で新人生活を送ったね。
合宿は館山 だったけど、東京湾をA級ディンギーで渡ったり、それで帰ってきたり・・・、『まさしくこれだ!』っていう感じを強めていったわけです。

期待した通りに興奮の連続だったヨット部での生活。
しかし大学3年になった山崎氏に思わぬ事態が起きる

「ところが大学3年になって、親父の家業が傾いてきて、練習どころじゃないという状況になった。
そんなことで当時の監督だった小沢信三郎氏に『こんなわけで退部ということも考えなければしょうがないんだ』ということを言ったら、『そういうこともあるだろうけど退部までは考えるな』と」
家庭の事情で練習にも参加することが出来なくなってしまった山崎氏に暖かい言葉をかけたのは当時の監督の小沢氏だけではなかった。
「そんなことがあって、(ヨット部を)全うしていないという自分の悔いが残るんだけど小沢先生とか、まあ、武村さん並木さん、先輩の舟岡さん、そんな人達のはからいでOBとして扱ってもらっているというのが本当のところだよ。」

山崎氏は「これまでの話が学生時代の基本的な流れだよ」と語った。しかし、本当に後輩たちに残したい話というのはこの後の話だと言う。
つまり山崎氏の大学卒業から今に至るまでの『足跡』であり、これからの日本ヨット界の『眺望』だ。

「大学を出て4年間は家業の立て直しということでね
必死になって仕事やりましたよ。
で、親父から『もうお前ヨット乗っていいぞ』というのがちょうど卒業して4年ぐらいだったな。
今はあまり有名でないけど、19フィートのディンギーでライトニングという船があるんだけど、それを横須賀の進駐軍が帰るんで売っていきたいという話があった。

武村さんと、亡くなった杉山さんに相談して『どうしても買いたい』ということで、進駐軍を値切り倒して手に入れて・・・闇ドルで1ドル400円だよ。苦労してローンにしてもらった。
A-Classディンギーからいきなり19フィートでスピネーカーもついてる船だからね。
もう、東京湾を走りまくったね(笑)」

購入したライトニング級は3人乗りのディンギーで、スピンもある。
そのディンギーで東京湾を行ったり来たりする事は、山崎氏にとって
空いてしまった数年のブランクを埋めるのにちょうど良かったのではないだろうか。

ライトニングを購入して少し経った頃、また一つの転機が訪れる。


「ディンギーだと行動範囲に限界があるんで、油壷でぶらぶらしてた時、横山晃さんという人に出会った。
この前亡くなったのかな・・・。当時横山さんはシーホースを設計して、大島までシングルハンドで行って帰って来る
というようなキャンペーンをやったりして、シーホースを日本で普及させてた人だったが、大型艇も設計していた。
その中古艇がちょうど売りに出ていたんだ、21フィートのヨールだった。」


それまでディンギーで活動していた頃は、
夜に東京湾で流されてしまって
漁船に助けてもらったりとトラブルもあった。
「ヨットは安全でなければいけない」と感じた山崎氏は
このヨールに乗り換えたと言う。
「毛布が乾いてる船ってすげーぞ!ってね。」

「私の、最初の外洋艇。
船の名は『亜光』だ。」



「それで、杉山さんや武村さんとか4人で、当時のNORC(日本外洋帆走協会)のレースにどんどん出ようということで、第7回の鳥羽レースに出場したんだ。
もう40年ぐらい前になるのかな。

鳥羽パールレース は2008年で49回になる)
これで何と総合2位に入った。もう病みつきになったね。
これが、外洋レースへ飛び込んでいったスタートだった。」

この1966年の第7回鳥羽レースから活躍の場は大型艇へと移る。
翌1967年の第8回鳥羽レース(参加22艇)ではみごとに優勝!
山崎氏が33歳の夏だった。

「その後はちょうど40年前の3月にチャイナシーレースに挑戦しようと。
これは武村さんが船を廻して、 武村さん石合さんなどクルーもほとんど早稲田の身内だった。
日本人が香港スタート、マニラゴールインというような外洋レースを本格的にやったのは
石原慎太郎さんに次いで二番目の挑戦であり、我々は第四位となった。


香港〜マニラレースに出発する『ふじ』(のちのミス・サンバード)
<「NORCの航跡 1954-1999」:日本外洋帆走協会 1999刊>


「そのあとは国内の試合、船もどんどん換えた。
国内のヨットレースで圧倒的に勝った。
なんたって公式レースが21ぐらいある中、19勝したって記録もある。」

サンバードは最初のミス・サンバードから、現在もあるスーパーサンバードまで、実に7世に至る歴史がある。
左の頂いた資料を見るとわかるが、1967年(昭和42年)から1986年(昭和61年)ごろまで、国内のレースでは、ほとんど全てのファーストホームに「サンバード」の名前がある。

ファーストホームってのは大小さまざまある大型艇のうち、その大きさに関わらず最初にゴールインした船。
噂も聞いてるだろうけど杉山さんというのは、早稲田がインカレで優勝したときのわれわれのキャプテンだった人だ。
なにしろ、ガラッパチでね、とにかくメチャクチャな人だった。
あったかいメチャクチャなんだよ(笑)『なにがなんでも、人の後を走るな』と。
だからファーストホームばっかりだろ。実はハンデじゃ負けてるんだよ。
でも、とにかく”一番でフィニッシュ”を積み重ねて総合優勝していく・・・とそういうスタイル・・・(笑)」

「人の後を走らない」これも早稲田大学ヨット部員が持つべき誇りの一つの形だと思う。
前回の舟岡氏が話していた「常に先頭は早稲田が切っているというプライド」という話を思い出す。
山崎氏のサンバードU世
「NORCの航跡30年」日本外洋帆走協会 1985

山崎氏がサンバードで活躍していたこの間の面白いエピソードがある。

「オーシャンレース始めた30歳から55歳ぐらいまでの25年間でサンバードシリーズを追っかけてね、日本の外洋レースを自慢じゃないけど総なめにした。
その時の最高のライバルが『月光』の 並木さんだよ。
どっちも強かったよ。強かった。
やな船は『月光』だけだよ。
慎太郎さん
(都知事の石原慎太郎氏) の『コンテッサ』なんてカモだったよな。「負けるわけねーよ」ってやつ。(笑)
だから『月光』に勝つか負けるかそれだけだった。・・・不思議なもんだね。

山崎氏が国内レースで総合優勝、ファーストホームをかけて争ったのは身内とも呼ぶべき並木氏だった。
山崎氏と並木氏、お互いが
「人の後ろは絶対走らないぞ!」
とチームメイトを鼓舞しながらレースをする姿が目に浮かぶ。

そして話はついに アメリカズカップ へと移る。

並木氏の月光Y世
「NORCの航跡30年」日本外洋帆走協会 1985


<1号艇の起工式:1989年9月24日>

「そうこうしてるうちに、ハワイでケンウッドカップを戦っている真っ最中にアメリカズカップに挑戦しようよという話がわっと出て来た。
もっとオーシャンレースやりたかったんだけどそういう『夢のまた夢』みたいなアメリカズカップの話が出て来た。
これを日本人として初挑戦することができるということ、
頑張ってみればできる、という決心に至るまでは悩みもあったけど
一旦腹くくったらしゃにむに走った。」

日本は92年のアメリカズカップ、サンディエゴ大会から95年のサンディエゴ大会、2000年のオークランド大会と3回ニッポンチャレンジとして挑戦した。
4年に1回のアメリカズカップを3回。
準備期間も入れれば実に14年の戦いだったという。
それですべて挑戦者決定シリーズのベスト4に残った。
そう、それは今思うとすごいことだったね。

で、その最中に行動を常に共にしてくれたのはやっぱり武村さんだし、それから外で、直接的じゃないけれども『後ろに早稲田大学ヨット部がついているんだよ』というような応援をしてくれたのは並木さんだったし・・・
えー・・みんながね、心からなる声援を送ってくれたよね。
そんなことでベスト4になれたんだよ。
日本人初めてのことをやってきて残念ながら一身上の問題で2000年で一息いれたと、というところかな。」



「それが大体の私のヨットライフ」
山崎氏はそう言うがオーシャンレースの第一線を退いた後も決してヨットからは離れない。

「推薦して頂いてセーリング連盟の会長になって
シドニーのオリンピックチームの総監督をやって、
で、アテネはもう若い人、小松さんにやってもらって自分は団長として参加した。

次の北京も、今若い連中がやってますけれども、会長として全力投球をする、というのが今の私のヨットライフ。

ま、それを頭に入れた上で考えると、やっぱり、
どんなレースをやっていても『俺の原点てのは何なんだよ』と思うと早稲田大学ヨット部なんだよ。


歴史、伝統、挑戦する気持ち、負けじ魂・・・
そういうものを全て早稲田大学 ヨット部は持っている。

そう山崎氏は断言する。

「そういうものを知らず知らずの内に叩き込まれているから、常に前向きにヨットレースを追っかける。
そして負けない、負けたくないという気持ちがやっぱりある。
だから
船を海にポコって浮かべてアンカーを打つとするだろ
そのアンカーは早稲田大学ヨット部に刺さっているんだよ。

アンカーロープは伸びて船はあっちいったりこっちいったりする。
だけど探っていきゃ、どんな時も、私の『心のアンカー』は
間違いなく早稲田大学のヨット部にしっかり打ってあった。」

人として、「男」として非常に大切なこと、負けない、負けたくないという原点。
しかし山崎氏はもう一つ大切な「原点」を学んだという。


1992年J3の積み込み出発
「もう一つの原点ていうのは人間関係だ。
私が入った時のスキッパーをやってくれた舟岡さん
舟岡さんの人柄とかそれから指導力は俺に大きな影響を与えたね・・・
その次は武村さん。終止一環行動を共にした。
外洋レースに狂ってるころの最強のライバルだった月光の並木さん
やや後輩になるけれど行動を共にしてくれた石合さん
なーんていう連中がこういう私を支えてくれた。その絆とか魂・・・
やっぱり、『早稲田の中でも、とりわけ人間関係に俺の碇は打ってあったんだな』、と。

半端な『友達』とかそんなもんじゃないわな、ヨットってのは。
死なばもろともなんだから。


1992年のメンバー


そして少し間を置くと、山崎氏は今の考え、今後の展望についても語ってくださった。


「まあ、70歳過ぎてね。もちろん自らがもう一回海に挑戦していく、
アメリカズカップであろうとボルボオーシャンであろうと。
その気持ちは持ってる。
持っているけれど、冷静に考えると、むしろ我々はオーガナイズをしながら若い人達に夢を託していく、そうしないと。
ただ椅子に座ってボケーとしている年寄り集団じゃしょうがないんだよ。」

「何かをしたい、一線は退いたけど何かをしなければならない」と話す山崎氏には思うところがある。

「しみじみ思うんだけど『我は海の子』なんていうのは日本においてはね、私は大嘘だと思ってるよ。
・・・というのはね、いろんな規制、制約事項があって先進欧米諸国のようにセーリングスポーツが肩で風切って楽しめたかというと、違う。

私たちが若いころはいい所は進駐軍に押さえられちゃっている。
で生きるための漁港、漁村というものが全てを左右するような時代。」


元を辿れば、鎖国ということがあったろ。たかだか二百何十年かの徳川幕府がした鎖国
それで日本人は海へ出て、遠くへ行って、夢を見るということを全部忘れたんだよな。
そりゃ怖いさ、海外から帰ってくると捕まっちゃうんだもの。
そして一気に明治維新で、よかろうということになった

ところがそのあと日本は、欧米の先進国に追い付け、追い越せということで、海を、戦争の海に変えてしまったんだよ。それが日本海海戦だとか、第一次世大戦、横須賀の戦艦三笠として残ってる。
それが高じて太平洋戦争になってしまった。で、太平洋戦争は戦艦大和の轟沈で終わった。
鎖国の後は戦争の海なんだよ。

戦後は日本を復興させなければいけない。
まず大型タンカーで原油を持って来る、それでトランジスタラジオを一生懸命売る。貨物船の往来する海になっちゃっている。復興の為、と言いながらね。

そう考えると一回も、日本人の、『心の故郷の海』というのは無いんだよ、今まで。
だからこそセーリングスポーツを普及・発展させて、生涯スポーツとみんなが言うようなところへ矛先を向けて、
そっちへ舳先をむけて、みんなで走って行こうというつもりで、今、私は、JSAFの会長をやっている。
幸い、並木さんにも顧問に就任してもらったし、母校出身の理事の方々もたくさんおられる。
私たちのような世代が、世界に胸をはって『我は海の子』と言える時代をね、早く作らなきゃいけない。そう思ってる」


鎖国の頃は「怖い海」。次に明治維新から始まる「戦いの海」、そして現在のタンカーが行き交うような「貿易の海」へ。
これまでの日本の歴史において「楽しむ場である海」「故郷というべき海」というものは一度もなかった。
そう山崎氏は話す。

「私が現役だった時はやはり今とは違う。
早稲田の仲間と外洋レースをこなして、日本の先頭を切って海外の連中と五分にやった。
その中で並木さんの月光と丁々発止の勝負をやった。
だから並木さんにも外洋関係の顧問をやってよと言ってね、日本の外洋レースをもっと盛んにしていかなければいけないと思ってる。

それはつまりね、若い人たちが挑戦する気持ちとか、冒険する心とかね、そういうのを失いつつある、
だからこそ、そういう雰囲気を作っていかなければならないと思ってるからなんだよ。

家の中でテレビゲームやってるんじゃしょうがない。

『オーバーナイトで夜の海を走るのいやだ!』って、そんなんじゃ、しょうがないだろ。
親も過保護ですよ。
一人でOPに乗っけて出しちゃう。自分の力で帰ってこいと。そのぐらいの環境が欲しいやな。」


1992年 アメリカズカップ
南波誠(メインシートトリマー チームキャプテン)と

話は山崎氏の大学時代に戻る。山崎氏の“代”の話だ

「ちょうど私が入った時にはね、高等学院 (早稲田大学高等学院) の1年生2年生3年生の経験と言うのは大学の1年生より上だった。並木さんは、大学入って来たのは私の下だよ。だけど私は『並木さん』ていうんだ。そういう切り換えの微妙なとこだ。
今となりゃな、どうってことないんだけど武村さんにしても並木さんにしても高等学院から来てるから私は一目置かなければならない。
でも私の方が上級生(笑)
そういうヘンテコな時代だった。」

これは第二回の武村氏も話してくださった、早稲田のヨット部が「年齢」より「年季」を重んじていた頃のエピソードだ。
今のヨット部の上下関係は年齢に従うという単純なものだが、年季を重んじるという考え方も納得がいく。確かに海の上では年季や経験がものを言う場面が、多々ある。


「やっぱ学院から来た奴は強かったし、上手かった。それにみんなヨットが好きだった。
私は舟岡さんに会ったということは人生で大きな出来事だったね・・・A級ディンギーで舟岡さんのクルーもやってた。
それで杉山さんがキャプテンだ。舟岡さんがマネージャー。
あのころの早稲田大学は本当に強かった。」

「冬のくそ寒い時期にもやってたわけよ。沈するとうまいこと拾ってくれるんだよな、上期の連中は。で陸に運んでくれる。でも寒いからね、沈した奴には焼酎を飲ましてくれるんだよ。
飲みたくてひっくり返る奴もずいぶん居たよ(笑)おもしろかったな。

つまり早稲田が館山で行われた全日本インカレで優勝した時というのは4年生にキャプテンの故・杉山氏、マネージャーの舟岡氏。2年生に山崎氏と武村氏、1年生に並木氏がいた事になる。
そしてどの方にしても、今や日本ヨット界の重鎮とも言うべき存在だ。これは偶然なのだろうか?


1999-2000年 アメリカズカップ
TOYOTAの豊田名誉会長が応援に駆けつける

「だから一種独特の年代グループだよね。
みんな団子になって、それで今でも夢を見ている。それぞれに活躍してる。


TOYOTAの岡部専務と
「裕次郎は昔、鳥羽レースの後、慎太郎さんと大喧嘩して『あんな兄貴と乗ってらんねえ。』って言ったことがあったよ。(笑)『俺はコンテッサ辞めてサンバードに来る』って、本当に来ちゃった。
でも、今も並木さんと慎太郎さんはめちゃくちゃ仲がいい。

私は慎太郎さんに『首都圏でヨットやりたい人たちが、みんな葉山とかへ行ってしまって、東京にいないというのは首都としてみっともないよ』と言ってるんだ。
『慎太郎時代に、オリンピック招聘、東京湾大マリーナ建造というやつをやれい!!』、と。
もう、慎太郎さん全然 その気だよ。審議会の方、世界に誇れるようなものすごいの作るという動きに入っている。」


「セーリングを通して次世代の優れた若者を育てる。挑戦を続ける心を。
そうやって真の海洋国家を育てる。
私達大人がね、そういう夢を創っていかないと。」

ここで恒例となったこの質問をしてみた。
“今の早稲田大学ヨット部をどう見てらっしゃいますか”
すると山崎氏の目元が少し緩んだ。


「ものすごくうれしい。
一時期の早稲田だったらものすごく悲しい。
向上心も無い、それから新しい技術とかセーリングテクニックを勉強するとか、
そういう精神のかけらもない時代があった。
・・・それはもう見るに見かねてたけどね。
最近早稲田はよくやる。今の監督いいよ。とてもいい。」

予想に反して、"一時期のヨット部"への厳しいお言葉に少し驚いた。
しかしその話からは、これまでどれだけヨット部を本当意味で「応援」してきて
下さったかがわかる。

「とにかく変わったってのがわかる。
それはね小松コーチの力もそうだと思うし、
むしろ精神的な変化の方が、大きいんじゃないかな。

ただチンタラ乗るんじゃないんだ。
俺たちは全力で全日本を制覇しにいくんだと、
そういう雰囲気を感じるようになってきたよ。

まあ、琵琶湖の結果なんてのはどうでもいいとは言わないけど、
いろいろ運もあるしそれはそれでいい。
実力じゃ間違いなくトップクラスだからね。
これをどう君たちが後輩に繋げて行くか。

75年前に作ったんだもん。そうでしょう。
戦争があった。食うや食わずの時代があった。
その間もヨット部を潰さないでやってきた。
第一にそういう先輩達が、もうお亡くなりになったにしても、いらっしゃるわけだからね。
彼らの気持ちというものに思いを致せば、頑張るって事になるよね。
もっともっと良くなって来るんじゃないかなあ。」



「変わった」
それについて山崎氏は大学のスポーツに対するスタンスが変わった事も大きいと言う。


2004年 関・轟組 470級銅メダル
「駅伝だって往路優勝したし。どのスポーツだってみんな良い所行ってる。
今度だって石橋君
(早稲田大学ヨット部OB 49er級代表) がオリンピック行くし。
それでね、やっぱり早稲田のヨット部のOBが日の丸上げなきゃ。
私はシドニーで総監督やって思ったけれど、そこに旗が上がるか上がらないか。
これは本当に大切。

アテネは上がった。その差ってのは大きいよ。
だから早稲田のヨット部も奮起してね、石橋君がいるから北京でも、それでイギリスでも、日の丸上げなきゃ。
そういう選手が必ず出てくれると思いますね。」

最後に現役のヨット部員へのメッセージを頂いた。

「優れたヨットマンは、優れた社会人ですよ。
それは間違いないなあ。みんな立派じゃないか。
学生時代の体育会の独特の雰囲気でね、酒飲み過ぎてひっくり返っただの、女追っかけただの、そういう話は山ほどあるさ。
だけどそりゃおまけみたいなもんでね。
レースとか練習とかでね、自然に身についている物の方が遥かに人生に大きな影響を残すよ。
大学の四年間てのはさ、その後40年、50年モノを言うんだ。
だから、今自分が置かれた環境で自分を鍛えろって言いたい。」


「みんな団子になって、それで今でも夢を見ている」

これから50年経って今の現役部員の果たして何人が同じ事を言えるだろう・・と考える。

早風があり、長距離のレースにも出ていた時代。
ディンギーで東京湾を館山まで往復していたような山崎氏の時代。

武村氏が、シーマンシップとは海の上で生き残る技術だと言われたように。
石合氏が、海外のレースで負けたことも全て未来への礎だったと言われたように。
並木氏が、ディンギーに乗っているだけではわからないことがあると言われたように。

夜の海を交代でワッチしながら一晩中航行していったり、時には台風にあって怖い目にもあったり・・・という経験ができた時代。
舟岡氏は、台風が来ると、早稲田は声をかけなくても、どこより早く全員がハーバーに艇の面倒を見に集まったと言われた。
陸近くで練習やレースをするだけの今の現役部員とでは、お互いに対する信頼や、仲間への敬愛、その絆の質が決定的に異なるのではないかと感じた。

インカレで優勝した山崎氏たちが現役だった頃の早稲田の強さの秘密はここにあったのではないか。

昨年の熱海へのクルージング、今年計画されている館山へのクルージング。
回数は少なくともその機会を精一杯活かしたいと感じた今回の取材だった。


文責:2年HP係 鈴木恵詞




© 2006 Waseda Yacht Team All rights reserved